「ツボ」を突く。

色々な「ツボ」を突いてみる。

コロンビアに勝ったは勝ったけど、香川はあれで良いのか?

緊急でツボ突きます。


ずううううっっっっと、気になってるんですけど、香川はあれで良いのか?

 

コロンビアは10人やったけど、実は日本も10人やった。


香川の出た代表戦は毎度そう。すぐ「試合から消える」。

 

PK決めて「最低限の仕事」したら、すぐ消えよった。それで「今日は、チームプレー

 

に徹した」みたいな顔を堂々としている。

 

どうも香川は、自分がドイツリーグで活躍出来ている理由と、その自分が日本代表に戻

 

ってしなければならないこと、の理解がいまだにできていないように思われる。

 

小柄な彼がドイツで活躍出来ているのは、大柄な他の選手ができない「細かい変化」を

 

付けけられるからで、その分彼が本来負担すべき「しんどい作業・役割」を他の10人が

 

1.1倍ずつ負担して「11人分」にしているからだ。

 

そんな彼が日本代表に戻ってきてしなければならないのは、「今度は自分が2,3人分

 

の働きをして『チームの底上げ』をする事」なのだ。

 

そう考えると、現時点での彼は「ドイツでの活躍ぶり」をそのまま持ち込めば良い、と

 

考えているように見えるし、・・・いやいや、それすらできていない。

 

そりゃそうだ。

 

ヨーロッパや南米の強豪国なら外国所属と国内の選手に実力差はさほどない。

 

日本ではまだまだベースアップが必要で、海外籍の選手が2,3人分の働きをしてよう

 

やく「11人」になる。

 

かの中田ヒデも代表チームの中でずいぶん苦労していたという話だ。

 

勝ったコロンビア戦、香川がすべき作業の大半を乾と原口の2人で「肩代わり」してい

 

たようにしか見えなかった。香川はポジションや立場上、「このチームの勝利は俺が決

 

める」という気概あるプレーが見えないと、他の海外籍の選手が持てるパワーを発揮で

 

きないのだ。

 

西野監督やチームメイトが制止するくらい「背負って」やって丁度。

 

試合後も、「俺はこの勝利の一翼をになった。」みたいな清々しい顔をしていたが、あ

 

んなものは誰も納得しない。「今日も『エース』として何もできなかった。」とうなだ

 

れ悔し涙を流すくらいでないと。

 

 

 

今大会も「香川と心中」にならぬことを祈る。

 

 

 

合掌。

 

 

 

 

 

 

 

女子レスリング問題「パワハラ」認定 - 「ハリル解任」と同じかも?

前々回、レスリング界のパワハラ問題について私見を述べた。そして誤解の無いよう断

っておくが、断じて「栄監督擁護派」でも「栄ファン」でもない。

 

ええ、ご存じの通り、第三者機関とされる所が「パワハラ認定」を訴え内容の7,8割

に対して出した。

 

栄氏も辞任し、一般的な視点では栄監督が「パワハラ」のレッテルを張られた形で収束

へ向かっているように見える。

最近は「認定」されるまでメディアにろくろく「顔出し」もしなかった「被害者」の一

田南部力氏が、これまでの恨み辛みを晴らすがごとく「こんなもんではなかった。も

っとあった。」と暴露に口滑らかな様子がよく映されている。もう、ほぼ「発言権」の

無い栄氏を尻目に。

 

うううん、やっぱり何かおかしい。…いやいや、「何か」どころではない。

 

「家事」でいうなら、この問題は「派手に燃えた個所」についてだけ当事者も野次馬も

「あらああ、あの燃え残ったタンス、高そうなのに勿体ないねぇ。」てな風に“盛り上が

った”だけで、本当の「出火元、出火原因」について、誰も探ろうとも語ろうともしな

い。

そう、極端に言えば田南部氏や安達氏の訴えも、「本当の出火原因」にはあまり意味を

持たない。

 

 

「何故、栄・伊調師弟は“ 仲違い ”することになったの

か? その本当のところは?

 

 

ここに尽きるのである。

 

 

実際、訴えの中で栄氏のパワハラ認定された言動にも二人の「不仲」を示唆するような

ものがあった。

 

そこで、先日の「ハリル解任」を見ていて、「あっ、レスリングのパワハラ問題もコミ

ュニケーションの問題ちゃうの?」と直感的に思ったのだ。

 

ハリルホジッチ監督解任は、ここまでの道のりで代表チームを運営・前進させるには日

本お得意の表現「腹を割って話す」機会や機能が不十分だったようで、チームの方向

性・サッカーそのものの内容・感情面様々な切り口でも選手監督一丸となって世界と戦

っていくには不十分と判断されてのようだった。ここで重要なキーワードとなったの

は、「コミュニケーションの希薄化」。

 

「あれっ、『猛反対した親を振り切って上京し、そこそこ上手くやっているのにわだか

まりが解けず互いに連絡しない親子』みたいなモンじゃないの?」

 

もともとは、

 

自分の想像以上に成長し「新たな見解と志向」を持って自分の下を去った弟子の話を聞けない師匠、一方で「意固地な師匠」をじっくり説得することを辞めてしまった弟子

 

ここに他人(同じレスリング関係者だが、この師弟関係にとっては…)が介在してしま

ったことで、巻き込むように「飛び火」したのではないのか?

 

同じ弟子でも「吉田沙保里」氏はオープンな性格サービス精神旺盛で一般にも広く知ら

れる。リオで4連覇を果たせずカメラを通じて日本国民に涙ながらに謝罪したのは記憶

に新しい。

 

一方、「求道者」「ストイック」という言葉を見事に具現化したような人物が伊調氏

で、五輪4連覇も今回の騒動もこの性質の賜物かもしれない。テレビ出演時も必要以上

な言葉数で話さない。…こんなところを見ても、栄氏からの「独立」を切り出した際、

ショックで感情がやや過ぎた師匠の反応を見て、文字通り「冷めてしま」い(日本人の

『情』で言えば、「一応育ててもらったんだから、じっくり説得してみたら」という所

だが。)説得を辞めてしまったのでは? というのが想像に易いところだろう。

 

田南部氏も伊調氏に就くんだったら、まずは「もうちょっと時間をかけて説得してみた

ら?」と促すべきだった。それでも溝が埋まらない時、話が他を巻き込んでパワハラ

へコジレる前に協会上層部に仲裁に入ってもらうなどしていれば、栄氏も「話を聞く度

量を持つ指導者」という部分を問われることになり、世間を巻き込んだ騒動にはならな

かったろう。

 

 

 

まあ、何にしても東京五輪本番前に5連覇の可能性がつぶれなくて良かった。

 

栄氏も辞任に際して同じように「内ゲバでの5連覇阻止と取られなくて良かった。」様

のコメントを残したが、この辺りにも師弟のコミュニケーション不足が原因で「権力の

誇示」からくるものでなかったことが窺える。栄氏もまだ「純粋なレスリング愛好者」

だったのだ。

 

 

 

合掌。

~ サッカーはシュートしてナンボ。代表監督を解任しても変わらない ~

サッカーファンや関係者殿、みんな解ってるんでしょ?

  

ハリルホジッチを解任したところで何も変わらないって。

  

「日本サッカーは、いまだに小学生が教わる基本のところで停滞している」と。

  

今時、リアルタイムで世界最高峰のサッカーがみられる。20年前まではBS放送で厳選

した数試合しか見られなかったが、今や何百試合の中から選ぶ苦悩になっている。基本

的には見るほうの「目が肥える」のは必至だ。

  

そうなりゃ、みんな解っているはず。

  

よほど拮抗した試合以外、ヨーロッパも南米も果敢に挑む「シュート」シーンに溢れて

いる。

  

ところが、日本サッカーはどういう訳か代表レベルになると、まあああああああああ、

 シュートを打たない。「本田圭佑」も「香川真司」も代表になると「借りてきた猫」状

態で、所属チームでのプレーと比べると、30パーセントはシュート数が落ちていると

思う。

 

いや、「比較」の問題じゃない。サッカーでシュートを打つのは、歩くのに左右いずれ

 かの足を前に出すことと同じだ。

  

しかも、特にサッカー経験者の皆さん、よ~く思い出していただきたい。少年団などで

 サッカーを始めた頃、口酸っぱく言われた「攻撃の優先順位」。

 

そう、最優先事項は「シュート」だ。

  

最初から「至るべき正解」を教わっているのだ。

  

南米・欧州の試合を見ても、ボールが渡った選手はよっぽど最初から敵に詰められてい

なければ、常にゴールを意識しているのがすぐにわかる。選手によっては「俺で ❝ 決め

る ❞ 。パスはない。」くらいの気迫がにじみ出ていることもある。結果シュートを外し

て、フリーだった味方に「俺が空いてたんだから、よこせよ!!」みたいな半ば怒りの

ジェスチャーを受けて、「分かった」とサムアップ…のような光景がよく見られる。

  

シュートも打たずにモタモタしているほうが、チーム内・サポーターからの非難が強い

 のだ。交代なんてこともあるだろう。

  

(もちろん、同時進行で「保険」のパスを探していることもある。)

 

どういう訳か、日本代表は最初から優先順位が「パス」になっている瞬間をひしひしと

 感じることが多い。敵陣に入っても、「よっしゃ、俺が行ったる!!」と感じる選手が

 本当に少ない。

  

もうちょっと細かく見ると、…

  

(元々、日本サッカーは子供も大人も全体的にシュートに消極的な傾向があると思うの

だが、これは今回の真テーマなので後でしっかりやりましょう。)

  

             …ここ10年ほどで流行の「ポゼッション」を取り入れてか

ら、コンパクトでショートパスを多用するようになったのは良いのだが、シュートレン

 ジもシュートへの ❝ 意欲 ❞ も「コンパクト」になってしまったようだ。

 

経験者なら解ると思うが、最初からパスを探している敵は何も怖くない。一方、シンプ

ルにゴールを狙ってくる敵は、意識も動きも全力を注がないとシュートもドリブルも止

められない。シュートをブロックで防ぐとなると、近くの味方が自然にブロックを加勢

しに来る。

  

こんな風に、コートの、特に自ゴール前の一カ所にチームの数選手が集まってしまう…

ということは、それだけ敵の選手が何人かがマークも受けずに(極一瞬だが)フリーに

なっている、あるいはスペースも空いているということでもある。

  

つまり、 シュート を打とうとすることで、一瞬の内にシュートとパスと更にフェイン

トからドリブルという2~3の選択肢が湧いてくるのである。

 

そもそも、シュートとゴールは「サッカー」というスポーツの意味を決める普遍的で重

要なアイテムだ。 どれだけ90分で走ろうが、ボーっと立っていようがシュートとゴ

ールがなければ、最初から試合をしていなかったに等しい。

 

こんなことは日本代表選手でも重々承知だろう。

 

では、何故?

 

個人的に、余りにも秀逸で苦笑いしてしまうほどの「答え」があった。

 

某サッカー番組に招かれた、脳科学中野信子氏による「日本人の脳科学的特性」を通

してみる日本サッカーの性格だった。

 

氏によると、これは日本人のスポーツにおける『宿命』なのだという。

 

大きく要因が3つあり、

 

①精神を安定させる脳内物質「セロトニン」を運ぶ ❝ 運送屋 ❞  の機能が弱く、比較 

 的すぐに「不安に陥りやすい」特性。つまり「心配症」。

 

②判断からの行動が「正確性」を重視する傾向にあり、「反射的」に行動する欧米人に

 比べ、遅れを取ってしまう。

 

③世界で一番「失敗」を嫌う民族である。

 同じ脳内物質でも、今度は「ドーパミン」で、比較的小さな「達成・成功」で ❝ 精神

 的おなか一杯(満足) ❞ になるようだ。逆に欧米人は満たされにくいので、「数を稼

 ぐ」ためリスクを厭わず何度もチャレンジするようだ。

 そして、満足を得やすい脳は、それを崩すようなことをわざわざ選択はしない。すな

 わち、「チャレンジを嫌う」ようになった。

 

 

こりゃ「シュート」も「チャレンジ」も難しいわな。

 

てなことを考えていたら、思い出した。自分がサッカー小僧だった時の事と、後に自分

が指導していた時の事を。

 

必ずしも「オール・タイム」ではないが、自分も仲間も、組み立てて攻め上がった後の

シュートを外すことを異様に嫌っているような瞬間があったような気がする。特に、シ

ュート打つのが下手なヤツが、他にフリーの味方もいた状態で結局外してしまうと、

「外すなら、打つな!」なんて声が出ることもあったと思う。

 

自分が指導するようになってからは、「シュートを外すことは、鉛筆やシャープペンの

❝ 芯 ❞ が折れるのと同じ。ガッカリしてないで、次の分を押し出したり削り出したりし

ないと、結局字が書けない(得点できない)。」と、シュートを推奨してきた。

それでも選手たちに本音を聞いてみると、「分かってはいるし文句も言わないが、やっ

ぱりせっかく大事に持ち上がってきたのにシュートが外れた瞬間は何とも言えない感じ

になる。」という声が。

 

つまり、世代を超えた「民族的特性」のようなものになっているのだ。

 

恐るべし 脳科学

 

ただ、これは「諦め納得すべき ❝ 終着駅 ❞ 」ではない。「遺伝的身体特徴」のように、

「全く如何ともし難いこと」とは違う。

 

「打てば(広義に『チャレンジすれば』も足しておこう。)済むこと」なのである。も

ちろん、これは「性格」みたいなものだから、アプローチに相当の工夫が求められる

が、全くシュートが打てないわけではないので、必ず解決する。

 

後、個人的な経験ではあるが、(特に試合開始の立ち上がりなどに)シュートを打つべ

きなのにはもう一つ隠れた重要な意味がある。シュートを打ったプロセス、場所、質

(強さ・正確性)などからチームの調子・敵の調子、互いの実力差・弱点、等々の事

が、ボヤっとながら覗けるのだ。

 

 

だから頼む! まずシュートしてくれ! SAMURAI BLUE !!

 

 

ええっと、先の脳科学のくだりだが、もう一つ自分の指導者時代の事を思い出した。

 

世界の中でも、特にアルゼンチンのアタッカーはシュート時における「集中力」「冷静

さ」はトップレベルと評価され、目指すべきモデル・参考・研究対象になっている。一

方日本選手は、敵のブロックやプレッシャーから焦って、ボールを打つベストタイミン

グより早く打ってしまうので、「打ち上げて」しまうことが多い。

 

無論、選手全員(特にJのプロ)とは言わないが、小学生期くらいの練習の様子にその

原点があるのでは? と思うのだ。

 

自分の担当していたチームのある日の練習で、「こりゃ、『The 日本人』だぁ。」と笑

ってしまったことがあった。

 

日本人は「集団行動・団体行動」が得意とされる。学校でも新学期は、体育で「整列」

や「列数の変換」など団体・集団行動を用いて学級運営を始めていく。まぁ、先進国の

中でも1クラスの編成がかなり多い部類に入るだろうから、必須要素だと言える。

秩序立って行儀よく振る舞うのは悪くない。ただ、これがスポーツの練習に「妙な化学

変化」を起こしてしまうことがある。

 

やっぱりこれも「シュート」の練習のときだった。

ゴールから左右の斜め45度離れた場所に列を作り、そこから一人ずつドリブルシュート

していくものだ。開始前に「できるだけ『右上隅』『左下隅』という風に細かく狙う所

を決めて打って行こう。」と指示し始まった。

 

しばらくはこちらも何も言わず、各人が「イメージと結果」の差を感じている様子を観

察して、修正点を提示しようとしていたのだが、ハッと気が付くと…

 

         「試技 → 列に戻る」という「一練習の流れ」

 

               …が恐ろしくリズミカルでキレイになっていたのだ。

 

血液の循環のように。

 

何が問題かって? 肝心の「シュート」が入っていない、のだ。

 

和気あいあいと「秩序」を作り、シュートが思い通りに行ってもいかなくても喜々とボ

ールを拾って元の列に戻りお行儀良く待つ、の繰り返し。誰も、自分が蹴った「足跡」

でフォームを確認したり、スイングが歪んでいなかったか素振りをして首をかしげる

うな選手がいなかったのだ。

 

余りにも面白かったので選手を集め、いかにも日本人らしい様子だったと説明し、今度

は「シュートを打つ瞬間は、『マンガ』のように自分の空間に没頭してバッチリ決めて

みよう。」と伝えて再開したのまで覚えている。

 

 

 

日本サッカーの行き詰まりは、意外にこんなところにあるのでは? と考えている。

 

 

合掌。

~ 伊調選手ツブして、誰が得する? ~

ご存じの通り、レスリング界がエライことになっている。

 

特にネットでは、半ば憶測や妄想で「これは自分ではなく、他の誰かが言ったこと。」

と、平気で物陰から「国民栄誉賞」に石を投げている奴が何と多いことか。

 

ヒドイものになると、「監督が選手と寝ている」などという奴までいる。

 

世界を連覇するような人たちにそこに使う「ヒマ」や体力なんてあるか?

 

もし仮に、倫理面の考察を一旦思考の輪から外したとしても、女性のスポーツそのもの

が(あまり表面的には語られないが)「いかにデリケートな女性生理とうまく付き合う

か」が超重要な事項の一つであることぐらい、中学生以上なら誰でも判る。

 

世界制覇や連覇のためにそんなリスクを冒す選手や監督がどこにいる?

 

まあ、たまに夫婦で選手とコーチという組み合わせもあるが、それでも「照準を合わせ

た大会」が夫婦二人のプライオリティであって、そう簡単に「産休」にはできない。そ

うなると、今度は練習場所や環境を提供してくれる「スポンサー」の信頼を失う。栄誉

どころか、スポーツ選手としての死活問題に直結である。

 

栄誉・名誉の面から言っても、伊調選手を潰して誰が得をするのか?

 

今回の件は、初制覇・2連覇の話ではない。 「5連覇」が掛かっているのである。オリ

ンピック競技で5連覇。世界の頂点に20年君臨するということである。ウサイン・ボ

ルトでも3連覇、柔道野村忠宏も3連覇、これでも大偉業と称えられている。

 

もし、5連覇・・・まあ、今後出ないでしょう。4連覇でも充分「超超人」。

 

もし、「あなたの特技・普段の仕事の作業が競技のサポートになる」と、レスリング協

会に依頼され、オリンピックの正式なスタッフの一員として書面に名を連ねることにな

るとして、伊調選手のこの5連覇に(正式な仕事としても)関われるとしたら?

もし、諸事情が許すなら・・・と考える人は多いはず。

 

レスリングに長く関わってきた人間(栄監督や協会の幹部のような人々)なら、なおさ

らその5連覇の価値を認識しているだろう。その直接的な関係者となる機会を自ら手放

すようなことをするだろうか?

 

初制覇・連覇くらいなら、嫉妬に狂って・・・はあり得ると思うが、5連覇となると、

もう「キング・カズ」の如く「こうなりゃ、どこまで行くか見てみたい」と思ってしま

うのだが。(あっ、もちろん純粋に競技で「彼女を自分が止める」と燃えている選手も

いますし、これが普通ですよ。そう、陰で野心に燃えるライバルたちがいるからこそ、

勝っても負けても素晴らしいドラマが生まれる、ということです。)

 

そう、少なくともこの騒動は、伊調選手をしいたげることで得をする関係者はいないの

である。

 

 

得するとすれば、「自称 ❝ 関係者 ❞」だろう。

 

それは、これまで伊調選手の「訴状には関わっていない」という一言以外の「沈黙」に

全てが込められているような気がする。この選手も本当によく解っていて「クレバー」

なんだわぁ。

 

 

合掌。

~日本の世界に誇るべき“ 話芸 ”「漫才」~

 「漫才」は、間もなく世界に向けてブレイクするであろう「The next COOL

 

JAPAN」である。

 

 近年、You tube などで日本の「お笑い」は、それに「ハマっ」た日本在住の外国人た

 

ちによって発信されている。

 

 日本の「お笑い」のエッセンスを知るには適役の「笑ってはいけない」シリーズが

 

(一応、「Japanese gameshow」と言ったタイトルで)日本の空気感に慣れた外国人

 

たちが、巧みにニュアンスを崩さず翻訳してテロップを入れ発信しており、またそれを

 

同じYouTubeで「リアクション動画」として腹を抱えて見ている様子を挙げている。

 

 また、「Anime Boston」なるイベントに、毎年のように「日本のお笑い・バラエティ

 

ー」を持ち込んで紹介する人もおり、その様子を会場の後ろから撮っているのだが、ま

 

あ、ほとんどの人の肩が絶えず揺れており、中には頭を抱え込んだりそっくり返って笑

 

っている様子がこれまたYouTube で紹介されている。

 

 日本の「お笑い」は世界を席巻しうるポテンシャルの塊なのだ。

 

 

 日本の「お笑い」のベースと変遷は、室町時代に職業的芸能としてハッキリ確立され

 

た「狂言( by 能楽)」に始まって、江戸時代に入って「浄瑠璃」や「講談」「講釈」

 

などと交じり合って「落語」「音曲漫談」「浪曲」などが生まれ、そして現代主流にな

 

っている「漫才」「コント・グループ」(と「ピン芸」)へ、という感じなってい

 

る。(落語成立の一説はかなり古く、お釈迦様が説法をより解りやすく・印象的にする

 

ために、その時話したい「教訓」に至るまでのストーリーで、キャラクターにカリカ

 

ュアした言動を取らせる手法を用いたという説もある。)

 

 

 漫才は、落語などより (…あくまで、漫才は現代お笑い芸能のベースなので、「ディ

 

スり」目的ではありません、という注釈で…) アクティブ・ワイドで、寸劇(コント)も

 

喋りだけの掛け合いも両方可能な形式だ。

 

 以前何かの世界のコメディをドキュメントしたようなテレビ番組で、アメリカの「ス

 

タンド・アップ・コメディ」アンに、日本の「スタンド・アップ・コメディは2人一組

 

で行う形式が多い。」と説明したところ、「それは“シャイ”なのか“臆病なのか”、一人で

 

しゃべることができないのか?」とやや侮辱気味に話していた。ただ、その彼の「芸

 

風」はなかなかの挑発的なものだったのを覚えている。まあ、その時たまたまそうだっ

 

たのかも知れない。

 

 例えばアメリカのコメディは、「差別」や「侮辱・悪口」ギリギリの所をウロウロす

 

るものがやはり多めで、ともすればその「ヒヤヒヤ感」を「笑い」とすり替えている感

 

すらある。「社会風刺」と言ってしまえばそれまでだが、それでは足を運んで見に来て

 

いる客は素直に楽しめない。

 

 

 その点で日本の「お笑い」は非常にクリーンなベースがあって、落語のネタにはいわ

 

ゆる「天然」や「おっちょこちょい」「ハチャメチャ」は登場するが、そこには差別や

 

侮辱的なものはほぼ存在しない。基本「天然」「ハチャメチャ」が巻き起こす騒動を

 

「暖かく」「突っ込んで」いくのが日本の基本的スタイルだ。

 

 そんなベースがあって、これを臨機応変に加工しやすく2,3人の構成にしたのが漫

 

才で、まあたとえ内容が少々過激・挑発的であっても「舞台上の2人の会話・掛け合

 

い」として、かつ露骨な中傷を避けることができる。

 

観客はとして、何かこう鳥かごの中を見るような、あるいは水槽を覗くような感覚で安

 

心して楽しむことができるのである。

 

 

 ダジャレ・エスカレート・音曲・モノマネ・しゃべくり・シチュエーションコント…

 

あらゆる設定から組み立てることのできるこの日本の話芸は、間もなく世界でブレイク

 

すること必至なのだ。

 

 

 

 

合掌。

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか? 詳細掘り下げ版

前回アップ後から色々調べた。

 

嘉納治五郎自身、知性も教養も高かったのに、なぜ「競技(スポーツ)」として危険か

つ脅迫的な要素「関節・絞め技」を盛り込んだのか。

 

意外なことが判ってきた。

 

創設当初、は「殴る・蹴る以外」何でもあり。講道館自体もルールの明文化が行われた

のは大正に入ってからで、結構アバウトだったという。

ライバル流派として「高専柔道」があり、今の「グレーシー柔術」よろしく「早い段階

で寝技系」を非常に得意としていた。

ルールが異なっていたものの、これに「講道館」は歯が立たなかったという。

しかも、嘉納自身が高専柔道に「難癖気味」に高専柔道へ特に足関節技やグレーシー柔

術のような「引き込み」の禁止を懇願しに行ったりもしている。

以降危険度の高い技から禁止されていったようだ。だが、一貫性や方向性は感じられな

い。

 

 残念ながら、まだまだこの時代では「非常時の『護身術』」が潜在的に大きなウェイ

トを占めていて、「『競技』用には安全なものを。」という考え方がなかったようだ。

 

もしかしたら、嘉納自身もあらゆるものが急激に近代化していく中で、「武道」「競

技」「体育」「スポーツ」の概念分けや整理が追い付かなかったかもしれない。

  

まあ、そうなら責められるべきは戦後柔道の組織や指導者たちだろう。

 

「非常時護身術」として秘密に指導するならともかく、体力や技の優劣だけでなく、骨

折や窒息で相手競技者を脅して勝敗を決めるのが“スポーツ”として果たして「公正」と

言えるのか?

 

やっぱり「競技構成」があまりにも変則的なのだ。

 

(そもそも、投げ技だって柔術合気道は、襲い掛かってくる人間を、相手の勢いを使

って投げるものが基本で、「自ら掴みに行って投げる」柔道のようなものはまずないと

言って良いと思う。)

 

もし本当に、日本人が良しとする柔道の醍醐味「投げ」を見たいのなら、競技スタイル

の見直しはシンプルな検討事項だと思う。

 

つまり、投げ専門・寝技専門・従来の混体 の3部門に分け、投げ専門は組んでからの

投げ技のみ、有効効果技あり無し、制限時間内での一本獲得数を勝ちとすれば、積極的

に立ち技でダイナミックに投げ合うことは必至だ。

 

ここでどうしても「関節・絞め技」入れたいのなら、寝技専門か混体に含めばよい。

 

それでも「平和の祭典オリンピック」の精神にはそぐわないと思う。もう、既に「総合

格闘技」もあるし。

 

 

合掌。

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか?

 昔通った中学は、体育の「必修武道」が「柔道」だった。

 


 最初の方に多少「座学」があって、柔道の歴史などを学ぶ。

 

 創成した嘉納治五郎は、色々資料なんかを見ていると、近代当時の日本が世界でのス

テイタスを得るために「日本人なりの紳士(ジェントルマン)」を模索していて、その

バックボーンに柔道を据えようとしたのではないかと思う。

 

 学生の頃、小学生にサッカーを教えていて、「体のぶつけ合い」や「面と向かう敵と

の間合いの取り方」なんかに武術の要素を取り入れようと、空手や柔道などを色々見て

みたことがあった。が、競技経験がなく、格闘技側からのアプローチの仕方が探れずじ

まいだった。

 

 それでもそんな中、「あれっ?」と思い始めたのが柔道だった。


 嘉納治五郎の思想には深く敬服するが、その「競技性」にどうも納得がいかない。

 

 オリンピックには、もう形骸化しつつあるが「代理戦争」という意味合いがある。そ

う、本物の戦争で無駄に「死人・ケガ人」を出さないために生まれた側面がある。そし

て、転じ進化して「安全な競技性」で「切磋琢磨」して最高のパフォーマンスを観衆と

分かち合うのがオリンピックの本質となってきている。

 
 もちろん、競技によっては…例えば冬季の種目「スケルトン」などは危険性が一目瞭

然で、残念ながら、たしかここ2,3回の冬季五輪の中のいずれかで秘かに選手が亡く

なっている。それでも、使用器具・コースいずれも回を追って改善されている。

 

 同じ格闘技系でも、ボクシングはヘッドギアを、フェンシングも面に防具があるし、

よほどのアクシデントでないと大けがをしないように配慮されている。


 その中で、「半意図的」に且つ競技中のサジ加減一つで簡単に大ケガにも死亡にもつ

ながる危険な技が認められているのがこの柔道なのである。ここでようやく登場、「関

節・絞め技」だ。関節技は、ザックリ言うと、「関節を反対に曲げる」である。「骨折

や脱臼の大ケガに至ると判ってい」て、さらに曲げていくのである。「絞め技」も同

様、この後「失神・窒息すると判っていて」絞め続けるのである。現実的な「大ケガ・

死」でもって相手を「脅し」て「降参・敗北」を迫るのである。‐‐‐実際の戦争・戦闘・

格闘と何ら変わりない。

 

 オリンピックの同じ格闘種目に「レスリング」があるが、関節技や絞め技なんてもの

はない。

 

 関節も絞めもプロの総合格闘技ですら、ほんの一瞬、選手自身の「タップ」やレフェ

リーの「ストップ」が遅れて、失神・脱臼・骨折…なんてしばしば見る。

 

 だから、関節技で起きるケガや事故は「不可抗力」ではない。ある意味、歴(れっき)

とした「業務上過失傷害」と言える。


 何でそんなモンが「オリンピック競技」で認められているのか?

 

 柔道はご存じの通り、「打撃」禁止である。そして「関節技」はOK。んっ? いず

れも「相手の体を破壊する動作・体技」である。何故、関節はOKで打撃がダメなの

か?


 もちろん、中学の授業で関節技は最初から「禁止事項」である。だからと言って「大

人になったら関節を反対に曲げてもケガしない」訳もないのである。

 

 本来、こういう事象への欧米などの認識と対処は素早いものなのだが、『「公正」を

重んじる武士道NIPPON』みたいな思い込みがあるのか、長年見逃されている。


 ただ、もし今この時代に嘉納治五郎が生きていたら、どうだったろう?

  

 そもそも、嘉納自身は(後の)東京大学を出た後、学習院や(後の)筑波大学などに

勤務、井上円了が創設した東洋大学の前身「哲学館」で教鞭も執っており、倫理学の研

究著書なども出していることから、常々「アップデート」する姿勢は持っていたと言える。


 実際に本人が語っていた言葉などを辿ってみると、今の腰が重い柔道組織とは違っ

て、どうも一応『柔道』と形作ったが、文字通り「粗削り」なもので課題が出次第、改

善していこうという姿勢がみられる。

 

 実際、同じように柔術から生まれた「合気道」などは、最初から「常用する技」とし

て関節技が組み込まれているので、その危険性から「試合(match)形式」は取らな

ず「演武」としての完成や精度向上を目指す。

 

 恐らく、柔道が世界的スポーツとして老若男女に親しまれる現代に生きていたら

(1940年幻の東京オリンピックの招致に尽力していた時は、柔道がオリンピック競技に

採択されるとは夢にも思っていなかっただろう。)、晩年まで武術武道の研究に勤(い

そ)しんだ彼なら間違いなく気づいていただろうし、何らかのアクションを起こしてい

ただろう。

 


 ええええっと、それなら…、ちょっと待てよ?

 近年の日本柔道の不振を見ていると、関節技の要・不要どころじゃねえぞ…。

  

 次回でもうちょっと書いてみたい。

  


 合掌。