「ツボ」を突く。

色々な「ツボ」を突いてみる。

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか? 詳細掘り下げ版

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか? 詳細掘り下げ版

 

前回アップ後から色々調べた。

 

嘉納治五郎自身、知性も教養も高かったのに、なぜ「競技(スポーツ)」として危険かつ脅迫的な要素「関節・絞め技」を盛り込んだのか。

 

意外なことが判ってきた。

 

創設当初、は「殴る・蹴る以外」何でもあり。講道館自体もルールの明文化が行われたのは大正に入ってからで、結構アバウトだったという。

ライバル流派として「高専柔道」があり、今の「グレーシー柔術」よろしく「早い段階で寝技系」を非常に得意としていた。

ルールが異なっていたものの、これに「講道館」は歯が立たなかったという。

しかも、嘉納自身が高専柔道に「難癖気味」に高専柔道へ特に足関節技やグレーシー柔術のような「引き込み」の禁止を懇願しに行ったりもしている。

以降危険度の高い技から禁止されていったようだ。だが、一貫性や方向性は感じられない。

 

 残念ながら、まだまだこの時代では「非常時の『護身術』」が潜在的に大きなウェイトを占めていて、「『競技』用には安全なものを。」という考え方がなかったようだ。

 

もしかしたら、嘉納自身もあらゆるものが急激に近代化していく中で、「武道」「競技」「体育」「スポーツ」の概念分けや整理が追い付かなかったかもしれない。

  

まあ、そうなら責められるべきは戦後柔道の組織や指導者たちだろう。

 

「非常時護身術」として秘密に指導するならともかく、体力や技の優劣だけでなく、骨折や窒息で相手競技者を脅して勝敗を決めるのが“スポーツ”として果たして「公正」と言えるのか?

 

やっぱり「競技構成」があまりにも変則的なのだ。

 

(そもそも、投げ技だって柔術合気道は、襲い掛かってくる人間を、相手の勢いを使って投げるものが基本で、「自ら掴みに行って投げる」柔道のようなものはまずないと言って良いと思う。)

 

 

もし本当に、日本人が良しとする柔道の醍醐味「投げ」を見たいのなら、競技スタイルの見直しはシンプルな検討事項だと思う。

 

つまり、投げ専門・寝技専門・従来の混体 の3部門に分け、投げ専門は組んでからの投げ技のみ、有効効果技あり無し、制限時間内での一本獲得数を勝ちとすれば、積極的に立ち技でダイナミックに投げ合うことは必至だ。

 

ここでどうしても「関節・絞め技」入れたいのなら、寝技専門か混体に含めばよい。

 

それでも「平和の祭典オリンピック」の精神にはそぐわないと思う。もう、既に「総合格闘技」もあるし。

 

 

合掌。

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか?

 昔通った中学は、体育の「必修武道」が「柔道」だった。

 


 最初の方に多少「座学」があって、柔道の歴史などを学ぶ。

 

 創成した嘉納治五郎は、色々資料なんかを見ていると、近代当時の日本が世界でのス

テイタスを得るために「日本人なりの紳士(ジェントルマン)」を模索していて、その

バックボーンに柔道を据えようとしたのではないかと思う。

 

 学生の頃、小学生にサッカーを教えていて、「体のぶつけ合い」や「面と向かう敵と

の間合いの取り方」なんかに武術の要素を取り入れようと、空手や柔道などを色々見て

みたことがあった。が、競技経験がなく、格闘技側からのアプローチの仕方が探れずじ

まいだった。

 

 それでもそんな中、「あれっ?」と思い始めたのが柔道だった。


 嘉納治五郎の思想には深く敬服するが、その「競技性」にどうも納得がいかない。

 

 オリンピックには、もう形骸化しつつあるが「代理戦争」という意味合いがある。そ

う、本物の戦争で無駄に「死人・ケガ人」を出さないために生まれた側面がある。そし

て、転じ進化して「安全な競技性」で「切磋琢磨」して最高のパフォーマンスを観衆と

分かち合うのがオリンピックの本質となってきている。

 
 もちろん、競技によっては…例えば冬季の種目「スケルトン」などは危険性が一目瞭

然で、残念ながら、たしかここ2,3回の冬季五輪の中のいずれかで秘かに選手が亡く

なっている。それでも、使用器具・コースいずれも回を追って改善されている。

 

 同じ格闘技系でも、ボクシングはヘッドギアを、フェンシングも面に防具があるし、

よほどのアクシデントでないと大けがをしないように配慮されている。


 その中で、「半意図的」に且つ競技中のサジ加減一つで簡単に大ケガにも死亡にもつ

ながる危険な技が認められているのがこの柔道なのである。ここでようやく登場、「関

節・絞め技」だ。関節技は、ザックリ言うと、「関節を反対に曲げる」である。「骨折

や脱臼の大ケガに至ると判ってい」て、さらに曲げていくのである。「絞め技」も同

様、この後「失神・窒息すると判っていて」絞め続けるのである。現実的な「大ケガ・

死」でもって相手を「脅し」て「降参・敗北」を迫るのである。‐‐‐実際の戦争・戦闘・

格闘と何ら変わりない。

 

 オリンピックの同じ格闘種目に「レスリング」があるが、関節技や絞め技なんてもの

はない。

 

 関節も絞めもプロの総合格闘技ですら、ほんの一瞬、選手自身の「タップ」やレフェ

リーの「ストップ」が遅れて、失神・脱臼・骨折…なんてしばしば見る。

 

 だから、関節技で起きるケガや事故は「不可抗力」ではない。ある意味、歴(れっき)

とした「業務上過失傷害」と言える。


 何でそんなモンが「オリンピック競技」で認められているのか?

 

 柔道はご存じの通り、「打撃」禁止である。そして「関節技」はOK。んっ? いず

れも「相手の体を破壊する動作・体技」である。何故、関節はOKで打撃がダメなの

か?


 もちろん、中学の授業で関節技は最初から「禁止事項」である。だからと言って「大

人になったら関節を反対に曲げてもケガしない」訳もないのである。

 

 本来、こういう事象への欧米などの認識と対処は素早いものなのだが、『「公正」を

重んじる武士道NIPPON』みたいな思い込みがあるのか、長年見逃されている。


 ただ、もし今この時代に嘉納治五郎が生きていたら、どうだったろう?

  

 そもそも、嘉納自身は(後の)東京大学を出た後、学習院や(後の)筑波大学などに

勤務、井上円了が創設した東洋大学の前身「哲学館」で教鞭も執っており、倫理学の研

究著書なども出していることから、常々「アップデート」する姿勢は持っていたと言える。


 実際に本人が語っていた言葉などを辿ってみると、今の腰が重い柔道組織とは違っ

て、どうも一応『柔道』と形作ったが、文字通り「粗削り」なもので課題が出次第、改

善していこうという姿勢がみられる。

 

 実際、同じように柔術から生まれた「合気道」などは、最初から「常用する技」とし

て関節技が組み込まれているので、その危険性から「試合(match)形式」は取らな

ず「演武」としての完成や精度向上を目指す。

 

 恐らく、柔道が世界的スポーツとして老若男女に親しまれる現代に生きていたら

(1940年幻の東京オリンピックの招致に尽力していた時は、柔道がオリンピック競技に

採択されるとは夢にも思っていなかっただろう。)、晩年まで武術武道の研究に勤(い

そ)しんだ彼なら間違いなく気づいていただろうし、何らかのアクションを起こしてい

ただろう。

 


 ええええっと、それなら…、ちょっと待てよ?

 近年の日本柔道の不振を見ていると、関節技の要・不要どころじゃねえぞ…。

  

 次回でもうちょっと書いてみたい。

  


 合掌。

餅屋は餅屋

 先月下旬の台風で、2階のベランダの波板が3分の2ほど失踪なされた。 代わりに他

所ン家の波板がいらっしゃっていた。


 久々に家が揺れるような強風だったのと、築20年そのまま風雪に耐えて来られたの

で致し方なかろう…が、正直出したくない出費だ。


 かと言って放置もできないので、手先はあまり起用でないながら“DIY”で頑張るこ

とにする。


 まずは、「枠」の形状と必要な材料の確認だ。 DIYでやるので、今度は長持ちする

ように材料は少し張り込んでもいいだろう。


 ホームセンターに行く。


 今までじっくり見たことなかったが、ブリキ製,塩ビ製,ガラスネット製,ポリカ

製,トタン,ガルバリウム製…一般に手に入るだけでもこんなにあった。


 今張ってある物は「ガラスネット波板」と言って、ここ2,30年で一番ポピュラー

なものだ。 これより耐久性のあるものにしたい。


 おっ、「ポリカーボネート製」? これが一番耐久性があってしかも「ガラスネッ

ト」より安い。決定。 固定フックも同じ材質のもので、と。


 あっ、波板って専用のハサミが要ったな? これもゲット。 場所によっては隙間を

詰める「パテ」っぽい物も必要らしい。ということで「シリコンコーキング」。


 帰宅して、いざ設置。 今張ってある物も切ったり加工したりの形跡もなし。じゃ

あ、これに新しいのを重ねてフックの位置をコピーし………あっ、ほんの少し短い! 

規格が変わってる!! 


 いや、違う。 ウチは中古物件。 前のオーナーは近所の工務店の大工さんで、在庫で

余っている材料を駆使して自作した家との事だ。だから所々一般の規格より長かったり

短かったりする。


 …待て待てぇ。なら、もう1回細部確認や。 と、隈なく「枠」の細部まで見てみると、エライことに気が付いた。


 場所によっては、どんな順序でやっても「距離」「隙間」共、手の届かない場所に固

定フックを打つことになってしまうのだ。


 まるで「ピラミッドの謎」だった。


 毎日数時間をこの修理に当てていたのだが、この謎を解くまでに、ただただジッと穴

の開くほど枠を眺めたり、ホームセンターへ行って店員さんに相談したり、で10日も

掛かってしまった。


 で、その10日後、その「謎」は爆笑と共に「御開帳」する。


 きっとこの10日でワシの頭の中は無意識的に「順序」と「How to」を検索し続けて

きたのだろう。いよいよ煮詰まってヒットしたのは、好きだった作家「中島らも」の一

番くだらなくて笑えるエッセイのエピソードだった。


 昔の「便所」についてのエピソードで、中学時代、ある友人宅の便所は「汚物」を溜

める槽が浅いのか、「大」をすると必ず「跳ね返り」が襲ってきた、と。それをいかに

体をのけぞってよけるか、で友人同士で盛り上がっていると、別の友人が「俺はそんな

苦労したことない。何をそんなに困るのか?」と。「じゃあ、お前はどうやって『跳ね

返り』を避けるのだ?」と尋ねると一言「そんなモン、便器の横にウンコして後で足で

蹴って落とすんじゃい。」と平然と言ってのける、という話だ。


 そこで「スコーンッ」と閃いた。ワシの発想がそもそも「スタート地点」を間違って

いたのだ。


 ベランダをよく見ると、波板の「枠」はベランダからボルトで「着脱」できるのだ。

つまり、波板を枠に入れて固定フックを打ってから元に戻しただけだったのだ。これな

ら、届かない所に手を入れなくても済む。


 ただし、結局のところ致命的だったのは、1×4m弱で2階に設置の“ ブツ ”は「一人

で持てない」という如何ともし難いことだった。


 作戦練り直しである。


 通常、波板の固定フックは小さい穴を開けて、屋根の上側表っ側から差し込む。で、

それができないので、2枚の板の重なった「継ぎ足し」部分に2か所穴を開けて、そこ

へ「結束バンド」を往復で差し込んで枠の「梁」に縛り付ける方法を取った。我ながら

名案だったと思う。


 幸い、板は「色付きの透明下敷き」さながらだったので、「釣り糸」を輪にして穴へ

通し、「往」の穴から出た結束バンドを「復」の穴へ引っ張り込んで結びつける。あと

は「コーキング」で防水。


 よしっ、もう先は見えた。 しかも、ちょっと作業が楽しくなってきている。


 人間、余裕が出てくると良くも悪くも色々考えられるようになる。 もし、ホームセン

ターに出張作業を頼んでいたら、「どのくらい」だったのかな?


…禁断の疑問だった。


 「ええっと。仮で見積もらしてもらいました。お客さんのベランダの大きさと「造

り」の感じでいったら…はいっ、○○円くらいですね。半日でできるでしょうし。」


 あ痛いたたたたた……。び、び、微妙だあああぁぁぁ。


 材料費と、今まで掛かった手間と時間を考えたら……微妙だああぁぁぁ。


 「いやあ、お客さん? おたく、良くやったはりますよ。今DIY流行ってるんで、

色々素人のお客さんお越しになるんですけど、最後まで我慢できずに結局我々業者に頼

む人が多いんです。大体、修理作業がうまくいかないからって、そもそも最初にどんな

工程で造ったのか、まで考える方あんまりいませんよ。感心してるんです。」


「ああ、そう。おおきに。頑張るわ。」


何か、ホヤホヤした気分で店を出る。ワシは「一つ良い経験と勉強をした。」と喜ぶべ

きなのか、2週以上も時間を浪費したとみるべきなのか。


いずれにせよ、まだ終わっていない。独り者は基本、何でも、最後まで、やらないとど

うしようもないのだ。

 

合掌。

老後の「生活設計」を考える、という事


 これは、ユースホステルが主催している「レクリエーション・インストラクター」講習を大分前に受けた時の事だ。

 

 文字通り、イベントやキャンプなどでのレクリエーションを「指導」する立場になるための民間資格講習ということである。

 

 何でもそうだが、指導する人は「その当該事」の「周辺」から熟知していなくては何も語ることができない。

 

 ということで、レクリエーションとそれにまつわることを多角から考えていくのだが、全く思いもよらなかったことを沢山突き付けられ脳をひっくり返されたようで、痛快だったのを覚えている。

 

 その中で、「定年退職してからの生活をシミュレーションしてみる」という回の講義があって、これがやってみると、まああああ、のっけからつまづくつまづく。

 

 というのは、設定では60歳から始めて…ということなのだが、大概の人は「退職後から」何をするか考えてしまうのである。

 

 この時点でまず「ブッブー!!」。

 

 そう、より長く確実に定年後を楽しむには、「走り幅跳び」のように的確な「助走」が必ず必要だということなのである。つまり、定年前からの入念な「準備」「下調べ」である。

 

 例えば、「田舎生活」や「海外移住」をしたいと考えたとする。

 

 そこで、退職後から「まず、何処に行こうかな?」では、身の丈に応じた場所を探すのに下手をすれば数年掛かってしまう訳である。っで、「あそこに行きたい」と思っても、現地が受け入れに当たっての条件を出していることがあり、例えば、現地の「就職事情を荒らさない」ために、「雇用」はOKだが「たとえバイトでも就職はダメ」だとかあったりする。

 

 更に、申請・身元照会・人物審査・保証人設定なんかがあって、日本の人・モノ含めた「身の周りの整理」(これも気を使って大変だとのこと。)人によっては、準備途中で病気が出てきたり老化で体力が落ちたりして、「場所の再設定」が必要になることも。

 

 定年から準備を始めて、「上手くいったな」で2~5年、途中で多少修正で5~7、8年、結局10年近く要して「諦める」なんてこともあるようで。諦めたら諦めたで、また今の場所での生活を考えなければならない。…人生およそ80年ですから、余生の半分「空白空費」…エライことである。

 

 ただ、もう一つ頭に置いていただきたいことは、この講習は1999年前後の事で、今のようにしばしば「将来は年金自体まともに受けられないかも…」という懸念が出ることも考えると、もう良く解らなくなってくる。

 


今回はこの辺で。 合掌。

「巨大化」する子供向けヒーローは、現代の“神話”か?

先日、「アメト--ク」で「戦隊ヒーロー」を特集していた。

 

 「ヒーローモノ」は欧米にも日本アジアにも、そして実写もアニメもマンガもある。

そんでもって、アッシは戦後日本子供向けヒーロー創世記の真っ只中に生まれ、仮面ラ

イダー・ウルトラマンマジンガーZ等々、自分の人格形成の「芯」にしっかり練りこ

まれている。記憶をホジればテレビで特集されないモノも溢れるように出てくる。


 で、くだんの番組を見ていて、ハタと思ったのは(「巨大化」しない戦隊モノを見て

いたのだが、何故か…)「そもそも、何であの種類(ウルトラマン等)はデッカクなる

ねん?」だった。


 そう、日本の子供向け変身する系ヒーローは、大きなジャンルとして、

 ①実寸大の人間が実寸大に変身するモノ、

 ②乗り物様のパーツが合体して、或いは人間が変身巨大化するモノ、

の2種類に分けられる…と思う。


 「ヒーロー」が変身巨大化し変身することが物語の柱になっているのは、欧米には唯

一といって良い「超人ハルク」くらい…なもの(「ハルク」でもせいぜい体長5mか

な?)で、「巨大化する」のはほぼ日本独特と言って良い。


 ここで、恐らく多くの同意をもらえると予想できる「巨大化」の下限を勝手に決めて

おく。「ガンダム」までだ。


 まあ、「巨大化」を納得できるのはここまでだろう。ちなみにウィキで調べたら、人

間が何か別の存在に変身して展開する話のジャンルを「変身譚」というとの事だ。

 

 それにしても何故「巨大化する」のか? 

 

 例えば、神話等で「巨人及び巨人の神及び巨人化できる神」は欧米にもアジアにも存

在し、またそれが「人間」に「ダウンサイジング」して人間を試したり観察したり、は

ある。でも、人間が巨大化して…はあまりない。

 

 多くの話の設定は、人間は人間、神は神、である。人間が圧倒的な存在として変身巨

大化する発想は、日本及びアジアのオリジナルなのかもしれない。


 それで言えば、これは「世界まる見え!」で見たのだが、「アジアの“神文化”の本

場」インドの大河ドラマには、よく神や仏がモチーフのものがあるようで、善なる神が

悪と対決中にピンチになるとまさに「ウルトラマン」のように変身巨大化し、勝利を収

めるモノがあったのだ。そう、そして日本には秋田の自然災害に立ち向かう「八郎」が

いた。


 人には潜在的に「巨大なモノ」に「力」と「正義」を託すようである。


 変身ヒーローはよく番組の最後でチビッ子に向かって「ご教訓」を垂れる。結構効力

はあって、今も昔も世の「お母さん方」の‟頼みの綱”だ。

 

 神話には「生きるための知恵」「戒め」等が散りばめられたまさに「人生の教科書」

という側面があるが、今はこんな感じで脈々と受け継がれているのかもしれない。

 

 そのうち「古事記」の中に「超絶尊(ウルトラのミコト)」なんてのが書き加えらえ

るのかも。


合掌。

ピコ太郎の一発屋防止策は、それが意図したものであるなら、秀逸である

 2000年入ったくらいからだろうか。「子役」というモノが“(本人の素行・後の成長も含めて)まともなジャンルの仕事”としてようやく確立された感があるのは、特に昭和生まれの方々にとって異論のないところだと思う。

 

 美空ひばりは別格だとして、昭和生まれで放送開始とともにテレビを楽しんできた世代にとって、「子役」とは「=破天荒・波瀾万丈」そのものと言って過言ではなかろう。

 

 1970生まれのアッシ世代は、何といっても「ケンちゃんシリ-ズ」の宮脇康之氏や「パパと呼ばないで」の杉田かおる氏がすぐに思い浮かぶ。特に宮脇氏は相当な浮き沈み・迷走の後、IT事業等で成功、たまに笑顔でテレビで見かけるまでになった。

 

 今年中学生になった芦田愛菜鈴木福本田望結らの活躍を見ていると、芸能界も含め何かこう社会全体で、宮脇氏のように世間や人の欲望・期待に翻弄されて、後々荒廃した人生を歩まぬような配慮の方向へ動いいていたのが、ようやく実りつつあるのでは、という気がする。 更に本田望結に至っては、女優業と資金がかかると言われるフィギュアスケートを同時に取り組むことで、それぞれで獲得できるものをフィードバックさせあって互いの活動を成立させる、という劇的な進化を遂げている。

 

 また、同じ芸能界で子役と同じように近年、対策というか改善策というかある種の進化を見せているのが、“お笑い芸人”達の「一発屋消耗廃棄防止策」である。

 

 「一発屋」と言うと、短期間で大ブレイクから凋落・低迷している芸人を思い浮かべることが多いと思う。アッシはある時この「一発屋」現象が気になって、テレビの特集などで「一発期」について当該芸人が語っているものをできるだけ集めて、観察してみたことがある。…とは言え、10例ほどであるが。

 

 「一発屋」…まるで本人から進んでそうなったかのようなニュアンスを込め、また若干蔑みの意味も含まれながら使われていると個人的に思う。ところが、特に芸歴を浅くして「当たった」者にとっては、「あれは“危険球”のデッドボールも同じ。」「まさに『それを望む世間』に捧げる“生贄”。」「“次期の種子”まで食い尽くされて捨てられた。」というような声が実に多いのである。

 

 そう、やっと芸人として世間が反応する一つの手がかりを得たのに、「ブレイクネタごと“心中”させられる」のである。次のネタを創り出す時間・精神共に与えてもらえることなく、“刹那的”需要に応え続けた結果、ネタだけに収まらず、その芸人のアイデンティティーやキャラクターごと世間では飽和状態になって「拒絶」されることになるのだ。そろそろ漫才に戻りたいのに、「ラララ、ライッ!」「ラッスンゴレライ!」以外許されないまま忘却の海へ沈められるのだ。

 

 これは堪ったものではない。   

 

 ただ、そんな現象もここ10年ほどでずいぶん変わってきたように思う。

 

 まず、芸人を扱う事務所が多様・増加してきたことだ。歌手や俳優を扱う事務所が芸人を抱えることで、芸人を歌手・俳優並みに大事にするようになってきたのだ。そう、これまでは「世間」以前に芸人サイドで芸人を「消耗品」扱いしてきたといっても過言ではないのだ。特に大手Y興業など。 

 

 で、芸人もサッカー選手みたいに色々なポジションをこなせるように「多様化」を心掛けるようになってきている。例えば、小島よしおは運動能力を生かしてスポーツ・健康関係分野を増やしたり、「裸系」芸人でユニット組むなどして互いに同じネタでも「アップデート・ブラッシュアップ」しやすい環境を作っている。ちょっとした「労働組合」かもしれない。 

 


 そんな中、一番衝撃を受けたのは「ピコ太郎」である。

 


 古坂大魔王は最初からピコ太郎というキャラに「一人格」を与え、自分とは完全分化してしまった。

 


 仕組み・構造から言えば、「ワンクッション置く」というヤツで、物の扱い方としては、ごくごく普通のものである。ただ、今まで誰一人やってこなかった。


 これなら、古坂=ピコ太郎という形での「ピコ太郎とネタと“心中”」を避けることができる。後は大衆・世間の声にも惑わされることなく売れる売れない関係なく、好きに「新曲」や「新キャラ」を造り続けていくことができるのである。

 「“キャラ”ならロバートの秋山がいるじゃないか」という声もありそうだが、ロバートの秋山の場合は“ロバート秋山自身”として「演じ創り上げたキャラ」なのである。


 これ、古坂が意識して創っていたとしたら、トンでもない切れ者である。


 合掌。

理想の「音姫(トイレ用擬音装置)」とは?

 

 あるネット記事を見て、どうも合点がいかないので書いてみる。


 まず確認的にお断りしておく。「音姫」とは、1988年、(株)TOTO発売の「トイレ用擬音装置」の商標名である。日本人の大半が近現代的半永久的かつ動物的不可避な「日常の狼狽事項」に果敢に挑み、加えて絶妙なバランスのネーミングが人々の心を掴んだ。これが世間で「商標の通称名称化」して現在に至る。

 

 しかし、現代日本でのこの分野の「偉大なるフロンティア」は「株式会社 折原製作所」の「エチケットーン」だそうだ。1975年(昭和50年)頃に「一応、当折原製作所が作っているもの」として出来ている。

 

 1960年代から、日本のトイレも「水洗化」が普及し始めると、ごく自然な流れで兼ねてから「シモにまつわる音」を解消したかった「女子」は、水洗化が浸透し始めたトイレの流水の音でもって「消音」を始める。
 これに、しばしば夏の渇水が起こると深刻な水問題の一因となる。そんな嘆きの声から、当初は「オマケ」的に販売されていたが、徐々に「一人前」商品へ発展を遂げることになる。

 

 一気に「ブレイク」したのは1970年代後半から。

 

 さる衣料メーカーの工場から一度に300個の設置注文が来た。というのは、ここの工員は大半が女性だったからだ。となると、使用のたびに「流水」を消音に使うと莫大な費用が掛かることになる。そこで何とか費用を抑えたいと導入の運びになった。当社によると、この辺りから普及や他社の参入などへと確固たる商品分野へと成長していったとの事。っで、現在に至るという。

 

 最近では、「男性用」もあるらしく、「ホラ貝」が合戦場で鳴っているような仕様になっているという。

 


 ここで本題。皆さん、今日までのトイレ用擬音装置に対し、公然の「見て見ぬふり」をしていないだろうか?

 

 「恥ずかしい気持ち」まで「音」で消そうとするあまり、「流水音」「ポップ」「メルヘン」「ホラ貝」…いずれにしても「用を足す音」とはベクトルが「縦」と「横」、つまりスレ違いすぎるものをぶつけてしまって、結局お互いが独立して聞こえてしまう、少なくともアッシはそう思うのである。

 

 「用を足す音」と平行に並ぶ音でないと、まず「恥ずかしい音」が消えないのだ。「恥ずかしい音」と正面切って向き合い「対音」を検討しない限り、羞恥心の除去なんて程遠いのである。

 


 そう、素直に「『用足し音』に似た音」を探すべきなのだ。「空気・物質が『筒状』を通って発生する音」だ。

 

 日常でよく聞かれるこの手の音、結構ありますぞ。

 

 クールな奴でいけば、「ハー〇ー・〇ビッドソン」の特に低速回転時の音は結構使えると思う。調子が悪くって、止まりがちな時も使えますぞ。「ハー〇ー・〇ビッドソン」社との交渉には時間がかかるでしょうけど。

 

 もっとソックリ系でいくなら、マヨネーズやケチャップの残り少ない時。これはこれ以上書かなくても良いだろう。かなり仕組みも形状も似ているので。

 

 実はホラ貝などのラッパ系も悪くはないが、音の振動が低いホルン・チューバクラスくらいからでないと「カムフラージュ」はできないと思う。
 

 

 当該企業様方、是非ともご検討お願い申し上げます。


 合掌。