「ツボ」を突く。

色々な「ツボ」を突いてみる。

~ サッカーはシュートしてナンボ。代表監督を解任しても変わらない ~

サッカーファンや関係者殿、みんな解ってるんでしょ?

  

ハリルホジッチを解任したところで何も変わらないって。

  

「日本サッカーは、いまだに小学生が教わる基本のところで停滞している」と。

  

今時、リアルタイムで世界最高峰のサッカーがみられる。20年前まではBS放送で厳選

した数試合しか見られなかったが、今や何百試合の中から選ぶ苦悩になっている。基本

的には見るほうの「目が肥える」のは必至だ。

  

そうなりゃ、みんな解っているはず。

  

よほど拮抗した試合以外、ヨーロッパも南米も果敢に挑む「シュート」シーンに溢れて

いる。

  

ところが、日本サッカーはどういう訳か代表レベルになると、まあああああああああ、

 シュートを打たない。「本田圭佑」も「香川真司」も代表になると「借りてきた猫」状

態で、所属チームでのプレーと比べると、30パーセントはシュート数が落ちていると

思う。

 

いや、「比較」の問題じゃない。サッカーでシュートを打つのは、歩くのに左右いずれ

 かの足を前に出すことと同じだ。

  

しかも、特にサッカー経験者の皆さん、よ~く思い出していただきたい。少年団などで

 サッカーを始めた頃、口酸っぱく言われた「攻撃の優先順位」。

 

そう、最優先事項は「シュート」だ。

  

最初から「至るべき正解」を教わっているのだ。

  

南米・欧州の試合を見ても、ボールが渡った選手はよっぽど最初から敵に詰められてい

なければ、常にゴールを意識しているのがすぐにわかる。選手によっては「俺で ❝ 決め

る ❞ 。パスはない。」くらいの気迫がにじみ出ていることもある。結果シュートを外し

て、フリーだった味方に「俺が空いてたんだから、よこせよ!!」みたいな半ば怒りの

ジェスチャーを受けて、「分かった」とサムアップ…のような光景がよく見られる。

  

シュートも打たずにモタモタしているほうが、チーム内・サポーターからの非難が強い

 のだ。交代なんてこともあるだろう。

  

(もちろん、同時進行で「保険」のパスを探していることもある。)

 

どういう訳か、日本代表は最初から優先順位が「パス」になっている瞬間をひしひしと

 感じることが多い。敵陣に入っても、「よっしゃ、俺が行ったる!!」と感じる選手が

 本当に少ない。

  

もうちょっと細かく見ると、…

  

(元々、日本サッカーは子供も大人も全体的にシュートに消極的な傾向があると思うの

だが、これは今回の真テーマなので後でしっかりやりましょう。)

  

             …ここ10年ほどで流行の「ポゼッション」を取り入れてか

ら、コンパクトでショートパスを多用するようになったのは良いのだが、シュートレン

 ジもシュートへの ❝ 意欲 ❞ も「コンパクト」になってしまったようだ。

 

経験者なら解ると思うが、最初からパスを探している敵は何も怖くない。一方、シンプ

ルにゴールを狙ってくる敵は、意識も動きも全力を注がないとシュートもドリブルも止

められない。シュートをブロックで防ぐとなると、近くの味方が自然にブロックを加勢

しに来る。

  

こんな風に、コートの、特に自ゴール前の一カ所にチームの数選手が集まってしまう…

ということは、それだけ敵の選手が何人かがマークも受けずに(極一瞬だが)フリーに

なっている、あるいはスペースも空いているということでもある。

  

つまり、 シュート を打とうとすることで、一瞬の内にシュートとパスと更にフェイン

トからドリブルという2~3の選択肢が湧いてくるのである。

 

そもそも、シュートとゴールは「サッカー」というスポーツの意味を決める普遍的で重

要なアイテムだ。 どれだけ90分で走ろうが、ボーっと立っていようがシュートとゴ

ールがなければ、最初から試合をしていなかったに等しい。

 

こんなことは日本代表選手でも重々承知だろう。

 

では、何故?

 

個人的に、余りにも秀逸で苦笑いしてしまうほどの「答え」があった。

 

某サッカー番組に招かれた、脳科学中野信子氏による「日本人の脳科学的特性」を通

してみる日本サッカーの性格だった。

 

氏によると、これは日本人のスポーツにおける『宿命』なのだという。

 

大きく要因が3つあり、

 

①精神を安定させる脳内物質「セロトニン」を運ぶ ❝ 運送屋 ❞  の機能が弱く、比較 

 的すぐに「不安に陥りやすい」特性。つまり「心配症」。

 

②判断からの行動が「正確性」を重視する傾向にあり、「反射的」に行動する欧米人に

 比べ、遅れを取ってしまう。

 

③世界で一番「失敗」を嫌う民族である。

 同じ脳内物質でも、今度は「ドーパミン」で、比較的小さな「達成・成功」で ❝ 精神

 的おなか一杯(満足) ❞ になるようだ。逆に欧米人は満たされにくいので、「数を稼

 ぐ」ためリスクを厭わず何度もチャレンジするようだ。

 そして、満足を得やすい脳は、それを崩すようなことをわざわざ選択はしない。すな

 わち、「チャレンジを嫌う」ようになった。

 

 

こりゃ「シュート」も「チャレンジ」も難しいわな。

 

てなことを考えていたら、思い出した。自分がサッカー小僧だった時の事と、後に自分

が指導していた時の事を。

 

必ずしも「オール・タイム」ではないが、自分も仲間も、組み立てて攻め上がった後の

シュートを外すことを異様に嫌っているような瞬間があったような気がする。特に、シ

ュート打つのが下手なヤツが、他にフリーの味方もいた状態で結局外してしまうと、

「外すなら、打つな!」なんて声が出ることもあったと思う。

 

自分が指導するようになってからは、「シュートを外すことは、鉛筆やシャープペンの

❝ 芯 ❞ が折れるのと同じ。ガッカリしてないで、次の分を押し出したり削り出したりし

ないと、結局字が書けない(得点できない)。」と、シュートを推奨してきた。

それでも選手たちに本音を聞いてみると、「分かってはいるし文句も言わないが、やっ

ぱりせっかく大事に持ち上がってきたのにシュートが外れた瞬間は何とも言えない感じ

になる。」という声が。

 

つまり、世代を超えた「民族的特性」のようなものになっているのだ。

 

恐るべし 脳科学

 

ただ、これは「諦め納得すべき ❝ 終着駅 ❞ 」ではない。「遺伝的身体特徴」のように、

「全く如何ともし難いこと」とは違う。

 

「打てば(広義に『チャレンジすれば』も足しておこう。)済むこと」なのである。も

ちろん、これは「性格」みたいなものだから、アプローチに相当の工夫が求められる

が、全くシュートが打てないわけではないので、必ず解決する。

 

後、個人的な経験ではあるが、(特に試合開始の立ち上がりなどに)シュートを打つべ

きなのにはもう一つ隠れた重要な意味がある。シュートを打ったプロセス、場所、質

(強さ・正確性)などからチームの調子・敵の調子、互いの実力差・弱点、等々の事

が、ボヤっとながら覗けるのだ。

 

 

だから頼む! まずシュートしてくれ! SAMURAI BLUE !!

 

 

ええっと、先の脳科学のくだりだが、もう一つ自分の指導者時代の事を思い出した。

 

世界の中でも、特にアルゼンチンのアタッカーはシュート時における「集中力」「冷静

さ」はトップレベルと評価され、目指すべきモデル・参考・研究対象になっている。一

方日本選手は、敵のブロックやプレッシャーから焦って、ボールを打つベストタイミン

グより早く打ってしまうので、「打ち上げて」しまうことが多い。

 

無論、選手全員(特にJのプロ)とは言わないが、小学生期くらいの練習の様子にその

原点があるのでは? と思うのだ。

 

自分の担当していたチームのある日の練習で、「こりゃ、『The 日本人』だぁ。」と笑

ってしまったことがあった。

 

日本人は「集団行動・団体行動」が得意とされる。学校でも新学期は、体育で「整列」

や「列数の変換」など団体・集団行動を用いて学級運営を始めていく。まぁ、先進国の

中でも1クラスの編成がかなり多い部類に入るだろうから、必須要素だと言える。

秩序立って行儀よく振る舞うのは悪くない。ただ、これがスポーツの練習に「妙な化学

変化」を起こしてしまうことがある。

 

やっぱりこれも「シュート」の練習のときだった。

ゴールから左右の斜め45度離れた場所に列を作り、そこから一人ずつドリブルシュート

していくものだ。開始前に「できるだけ『右上隅』『左下隅』という風に細かく狙う所

を決めて打って行こう。」と指示し始まった。

 

しばらくはこちらも何も言わず、各人が「イメージと結果」の差を感じている様子を観

察して、修正点を提示しようとしていたのだが、ハッと気が付くと…

 

         「試技 → 列に戻る」という「一練習の流れ」

 

               …が恐ろしくリズミカルでキレイになっていたのだ。

 

血液の循環のように。

 

何が問題かって? 肝心の「シュート」が入っていない、のだ。

 

和気あいあいと「秩序」を作り、シュートが思い通りに行ってもいかなくても喜々とボ

ールを拾って元の列に戻りお行儀良く待つ、の繰り返し。誰も、自分が蹴った「足跡」

でフォームを確認したり、スイングが歪んでいなかったか素振りをして首をかしげる

うな選手がいなかったのだ。

 

余りにも面白かったので選手を集め、いかにも日本人らしい様子だったと説明し、今度

は「シュートを打つ瞬間は、『マンガ』のように自分の空間に没頭してバッチリ決めて

みよう。」と伝えて再開したのまで覚えている。

 

 

 

日本サッカーの行き詰まりは、意外にこんなところにあるのでは? と考えている。

 

 

合掌。

~ 伊調選手ツブして、誰が得する? ~

ご存じの通り、レスリング界がエライことになっている。

 

特にネットでは、半ば憶測や妄想で「これは自分ではなく、他の誰かが言ったこと。」

と、平気で物陰から「国民栄誉賞」に石を投げている奴が何と多いことか。

 

ヒドイものになると、「監督が選手と寝ている」などという奴までいる。

 

世界を連覇するような人たちにそこに使う「ヒマ」や体力なんてあるか?

 

もし仮に、倫理面の考察を一旦思考の輪から外したとしても、女性のスポーツそのもの

が(あまり表面的には語られないが)「いかにデリケートな女性生理とうまく付き合う

か」が超重要な事項の一つであることぐらい、中学生以上なら誰でも判る。

 

世界制覇や連覇のためにそんなリスクを冒す選手や監督がどこにいる?

 

まあ、たまに夫婦で選手とコーチという組み合わせもあるが、それでも「照準を合わせ

た大会」が夫婦二人のプライオリティであって、そう簡単に「産休」にはできない。そ

うなると、今度は練習場所や環境を提供してくれる「スポンサー」の信頼を失う。栄誉

どころか、スポーツ選手としての死活問題に直結である。

 

栄誉・名誉の面から言っても、伊調選手を潰して誰が得をするのか?

 

今回の件は、初制覇・2連覇の話ではない。 「5連覇」が掛かっているのである。オリ

ンピック競技で5連覇。世界の頂点に20年君臨するということである。ウサイン・ボ

ルトでも3連覇、柔道野村忠宏も3連覇、これでも大偉業と称えられている。

 

もし、5連覇・・・まあ、今後出ないでしょう。4連覇でも充分「超超人」。

 

もし、「あなたの特技・普段の仕事の作業が競技のサポートになる」と、レスリング協

会に依頼され、オリンピックの正式なスタッフの一員として書面に名を連ねることにな

るとして、伊調選手のこの5連覇に(正式な仕事としても)関われるとしたら?

もし、諸事情が許すなら・・・と考える人は多いはず。

 

レスリングに長く関わってきた人間(栄監督や協会の幹部のような人々)なら、なおさ

らその5連覇の価値を認識しているだろう。その直接的な関係者となる機会を自ら手放

すようなことをするだろうか?

 

初制覇・連覇くらいなら、嫉妬に狂って・・・はあり得ると思うが、5連覇となると、

もう「キング・カズ」の如く「こうなりゃ、どこまで行くか見てみたい」と思ってしま

うのだが。(あっ、もちろん純粋に競技で「彼女を自分が止める」と燃えている選手も

いますし、これが普通ですよ。そう、陰で野心に燃えるライバルたちがいるからこそ、

勝っても負けても素晴らしいドラマが生まれる、ということです。)

 

そう、少なくともこの騒動は、伊調選手をしいたげることで得をする関係者はいないの

である。

 

 

得するとすれば、「自称 ❝ 関係者 ❞」だろう。

 

それは、これまで伊調選手の「訴状には関わっていない」という一言以外の「沈黙」に

全てが込められているような気がする。この選手も本当によく解っていて「クレバー」

なんだわぁ。

 

 

合掌。

~日本の世界に誇るべき“ 話芸 ”「漫才」~

 「漫才」は、間もなく世界に向けてブレイクするであろう「The next COOL

 

JAPAN」である。

 

 近年、You tube などで日本の「お笑い」は、それに「ハマっ」た日本在住の外国人た

 

ちによって発信されている。

 

 日本の「お笑い」のエッセンスを知るには適役の「笑ってはいけない」シリーズが

 

(一応、「Japanese gameshow」と言ったタイトルで)日本の空気感に慣れた外国人

 

たちが、巧みにニュアンスを崩さず翻訳してテロップを入れ発信しており、またそれを

 

同じYouTubeで「リアクション動画」として腹を抱えて見ている様子を挙げている。

 

 また、「Anime Boston」なるイベントに、毎年のように「日本のお笑い・バラエティ

 

ー」を持ち込んで紹介する人もおり、その様子を会場の後ろから撮っているのだが、ま

 

あ、ほとんどの人の肩が絶えず揺れており、中には頭を抱え込んだりそっくり返って笑

 

っている様子がこれまたYouTube で紹介されている。

 

 日本の「お笑い」は世界を席巻しうるポテンシャルの塊なのだ。

 

 

 日本の「お笑い」のベースと変遷は、室町時代に職業的芸能としてハッキリ確立され

 

た「狂言( by 能楽)」に始まって、江戸時代に入って「浄瑠璃」や「講談」「講釈」

 

などと交じり合って「落語」「音曲漫談」「浪曲」などが生まれ、そして現代主流にな

 

っている「漫才」「コント・グループ」(と「ピン芸」)へ、という感じなってい

 

る。(落語成立の一説はかなり古く、お釈迦様が説法をより解りやすく・印象的にする

 

ために、その時話したい「教訓」に至るまでのストーリーで、キャラクターにカリカ

 

ュアした言動を取らせる手法を用いたという説もある。)

 

 

 漫才は、落語などより (…あくまで、漫才は現代お笑い芸能のベースなので、「ディ

 

スり」目的ではありません、という注釈で…) アクティブ・ワイドで、寸劇(コント)も

 

喋りだけの掛け合いも両方可能な形式だ。

 

 以前何かの世界のコメディをドキュメントしたようなテレビ番組で、アメリカの「ス

 

タンド・アップ・コメディ」アンに、日本の「スタンド・アップ・コメディは2人一組

 

で行う形式が多い。」と説明したところ、「それは“シャイ”なのか“臆病なのか”、一人で

 

しゃべることができないのか?」とやや侮辱気味に話していた。ただ、その彼の「芸

 

風」はなかなかの挑発的なものだったのを覚えている。まあ、その時たまたまそうだっ

 

たのかも知れない。

 

 例えばアメリカのコメディは、「差別」や「侮辱・悪口」ギリギリの所をウロウロす

 

るものがやはり多めで、ともすればその「ヒヤヒヤ感」を「笑い」とすり替えている感

 

すらある。「社会風刺」と言ってしまえばそれまでだが、それでは足を運んで見に来て

 

いる客は素直に楽しめない。

 

 

 その点で日本の「お笑い」は非常にクリーンなベースがあって、落語のネタにはいわ

 

ゆる「天然」や「おっちょこちょい」「ハチャメチャ」は登場するが、そこには差別や

 

侮辱的なものはほぼ存在しない。基本「天然」「ハチャメチャ」が巻き起こす騒動を

 

「暖かく」「突っ込んで」いくのが日本の基本的スタイルだ。

 

 そんなベースがあって、これを臨機応変に加工しやすく2,3人の構成にしたのが漫

 

才で、まあたとえ内容が少々過激・挑発的であっても「舞台上の2人の会話・掛け合

 

い」として、かつ露骨な中傷を避けることができる。

 

観客はとして、何かこう鳥かごの中を見るような、あるいは水槽を覗くような感覚で安

 

心して楽しむことができるのである。

 

 

 ダジャレ・エスカレート・音曲・モノマネ・しゃべくり・シチュエーションコント…

 

あらゆる設定から組み立てることのできるこの日本の話芸は、間もなく世界でブレイク

 

すること必至なのだ。

 

 

 

 

合掌。

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか? 詳細掘り下げ版

前回アップ後から色々調べた。

 

嘉納治五郎自身、知性も教養も高かったのに、なぜ「競技(スポーツ)」として危険か

つ脅迫的な要素「関節・絞め技」を盛り込んだのか。

 

意外なことが判ってきた。

 

創設当初、は「殴る・蹴る以外」何でもあり。講道館自体もルールの明文化が行われた

のは大正に入ってからで、結構アバウトだったという。

ライバル流派として「高専柔道」があり、今の「グレーシー柔術」よろしく「早い段階

で寝技系」を非常に得意としていた。

ルールが異なっていたものの、これに「講道館」は歯が立たなかったという。

しかも、嘉納自身が高専柔道に「難癖気味」に高専柔道へ特に足関節技やグレーシー柔

術のような「引き込み」の禁止を懇願しに行ったりもしている。

以降危険度の高い技から禁止されていったようだ。だが、一貫性や方向性は感じられな

い。

 

 残念ながら、まだまだこの時代では「非常時の『護身術』」が潜在的に大きなウェイ

トを占めていて、「『競技』用には安全なものを。」という考え方がなかったようだ。

 

もしかしたら、嘉納自身もあらゆるものが急激に近代化していく中で、「武道」「競

技」「体育」「スポーツ」の概念分けや整理が追い付かなかったかもしれない。

  

まあ、そうなら責められるべきは戦後柔道の組織や指導者たちだろう。

 

「非常時護身術」として秘密に指導するならともかく、体力や技の優劣だけでなく、骨

折や窒息で相手競技者を脅して勝敗を決めるのが“スポーツ”として果たして「公正」と

言えるのか?

 

やっぱり「競技構成」があまりにも変則的なのだ。

 

(そもそも、投げ技だって柔術合気道は、襲い掛かってくる人間を、相手の勢いを使

って投げるものが基本で、「自ら掴みに行って投げる」柔道のようなものはまずないと

言って良いと思う。)

 

もし本当に、日本人が良しとする柔道の醍醐味「投げ」を見たいのなら、競技スタイル

の見直しはシンプルな検討事項だと思う。

 

つまり、投げ専門・寝技専門・従来の混体 の3部門に分け、投げ専門は組んでからの

投げ技のみ、有効効果技あり無し、制限時間内での一本獲得数を勝ちとすれば、積極的

に立ち技でダイナミックに投げ合うことは必至だ。

 

ここでどうしても「関節・絞め技」入れたいのなら、寝技専門か混体に含めばよい。

 

それでも「平和の祭典オリンピック」の精神にはそぐわないと思う。もう、既に「総合

格闘技」もあるし。

 

 

合掌。

柔道に思う。何故、「オリンピック・スポーツ」に「関節・絞め技」が含まれているのか?

 昔通った中学は、体育の「必修武道」が「柔道」だった。

 


 最初の方に多少「座学」があって、柔道の歴史などを学ぶ。

 

 創成した嘉納治五郎は、色々資料なんかを見ていると、近代当時の日本が世界でのス

テイタスを得るために「日本人なりの紳士(ジェントルマン)」を模索していて、その

バックボーンに柔道を据えようとしたのではないかと思う。

 

 学生の頃、小学生にサッカーを教えていて、「体のぶつけ合い」や「面と向かう敵と

の間合いの取り方」なんかに武術の要素を取り入れようと、空手や柔道などを色々見て

みたことがあった。が、競技経験がなく、格闘技側からのアプローチの仕方が探れずじ

まいだった。

 

 それでもそんな中、「あれっ?」と思い始めたのが柔道だった。


 嘉納治五郎の思想には深く敬服するが、その「競技性」にどうも納得がいかない。

 

 オリンピックには、もう形骸化しつつあるが「代理戦争」という意味合いがある。そ

う、本物の戦争で無駄に「死人・ケガ人」を出さないために生まれた側面がある。そし

て、転じ進化して「安全な競技性」で「切磋琢磨」して最高のパフォーマンスを観衆と

分かち合うのがオリンピックの本質となってきている。

 
 もちろん、競技によっては…例えば冬季の種目「スケルトン」などは危険性が一目瞭

然で、残念ながら、たしかここ2,3回の冬季五輪の中のいずれかで秘かに選手が亡く

なっている。それでも、使用器具・コースいずれも回を追って改善されている。

 

 同じ格闘技系でも、ボクシングはヘッドギアを、フェンシングも面に防具があるし、

よほどのアクシデントでないと大けがをしないように配慮されている。


 その中で、「半意図的」に且つ競技中のサジ加減一つで簡単に大ケガにも死亡にもつ

ながる危険な技が認められているのがこの柔道なのである。ここでようやく登場、「関

節・絞め技」だ。関節技は、ザックリ言うと、「関節を反対に曲げる」である。「骨折

や脱臼の大ケガに至ると判ってい」て、さらに曲げていくのである。「絞め技」も同

様、この後「失神・窒息すると判っていて」絞め続けるのである。現実的な「大ケガ・

死」でもって相手を「脅し」て「降参・敗北」を迫るのである。‐‐‐実際の戦争・戦闘・

格闘と何ら変わりない。

 

 オリンピックの同じ格闘種目に「レスリング」があるが、関節技や絞め技なんてもの

はない。

 

 関節も絞めもプロの総合格闘技ですら、ほんの一瞬、選手自身の「タップ」やレフェ

リーの「ストップ」が遅れて、失神・脱臼・骨折…なんてしばしば見る。

 

 だから、関節技で起きるケガや事故は「不可抗力」ではない。ある意味、歴(れっき)

とした「業務上過失傷害」と言える。


 何でそんなモンが「オリンピック競技」で認められているのか?

 

 柔道はご存じの通り、「打撃」禁止である。そして「関節技」はOK。んっ? いず

れも「相手の体を破壊する動作・体技」である。何故、関節はOKで打撃がダメなの

か?


 もちろん、中学の授業で関節技は最初から「禁止事項」である。だからと言って「大

人になったら関節を反対に曲げてもケガしない」訳もないのである。

 

 本来、こういう事象への欧米などの認識と対処は素早いものなのだが、『「公正」を

重んじる武士道NIPPON』みたいな思い込みがあるのか、長年見逃されている。


 ただ、もし今この時代に嘉納治五郎が生きていたら、どうだったろう?

  

 そもそも、嘉納自身は(後の)東京大学を出た後、学習院や(後の)筑波大学などに

勤務、井上円了が創設した東洋大学の前身「哲学館」で教鞭も執っており、倫理学の研

究著書なども出していることから、常々「アップデート」する姿勢は持っていたと言える。


 実際に本人が語っていた言葉などを辿ってみると、今の腰が重い柔道組織とは違っ

て、どうも一応『柔道』と形作ったが、文字通り「粗削り」なもので課題が出次第、改

善していこうという姿勢がみられる。

 

 実際、同じように柔術から生まれた「合気道」などは、最初から「常用する技」とし

て関節技が組み込まれているので、その危険性から「試合(match)形式」は取らな

ず「演武」としての完成や精度向上を目指す。

 

 恐らく、柔道が世界的スポーツとして老若男女に親しまれる現代に生きていたら

(1940年幻の東京オリンピックの招致に尽力していた時は、柔道がオリンピック競技に

採択されるとは夢にも思っていなかっただろう。)、晩年まで武術武道の研究に勤(い

そ)しんだ彼なら間違いなく気づいていただろうし、何らかのアクションを起こしてい

ただろう。

 


 ええええっと、それなら…、ちょっと待てよ?

 近年の日本柔道の不振を見ていると、関節技の要・不要どころじゃねえぞ…。

  

 次回でもうちょっと書いてみたい。

  


 合掌。

餅屋は餅屋

 先月下旬の台風で、2階のベランダの波板が3分の2ほど失踪なされた。 代わりに他

所ン家の波板がいらっしゃっていた。


 久々に家が揺れるような強風だったのと、築20年そのまま風雪に耐えて来られたの

で致し方なかろう…が、正直出したくない出費だ。


 かと言って放置もできないので、手先はあまり起用でないながら“DIY”で頑張るこ

とにする。


 まずは、「枠」の形状と必要な材料の確認だ。 DIYでやるので、今度は長持ちする

ように材料は少し張り込んでもいいだろう。


 ホームセンターに行く。


 今までじっくり見たことなかったが、ブリキ製,塩ビ製,ガラスネット製,ポリカ

製,トタン,ガルバリウム製…一般に手に入るだけでもこんなにあった。


 今張ってある物は「ガラスネット波板」と言って、ここ2,30年で一番ポピュラー

なものだ。 これより耐久性のあるものにしたい。


 おっ、「ポリカーボネート製」? これが一番耐久性があってしかも「ガラスネッ

ト」より安い。決定。 固定フックも同じ材質のもので、と。


 あっ、波板って専用のハサミが要ったな? これもゲット。 場所によっては隙間を

詰める「パテ」っぽい物も必要らしい。ということで「シリコンコーキング」。


 帰宅して、いざ設置。 今張ってある物も切ったり加工したりの形跡もなし。じゃ

あ、これに新しいのを重ねてフックの位置をコピーし………あっ、ほんの少し短い! 

規格が変わってる!! 


 いや、違う。 ウチは中古物件。 前のオーナーは近所の工務店の大工さんで、在庫で

余っている材料を駆使して自作した家との事だ。だから所々一般の規格より長かったり

短かったりする。


 …待て待てぇ。なら、もう1回細部確認や。 と、隈なく「枠」の細部まで見てみる

と、エライことに気が付いた。


 場所によっては、どんな順序でやっても「距離」「隙間」共、手の届かない場所に固

定フックを打つことになってしまうのだ。


 まるで「ピラミッドの謎」だった。


 毎日数時間をこの修理に当てていたのだが、この謎を解くまでに、ただただジッと穴

の開くほど枠を眺めたり、ホームセンターへ行って店員さんに相談したり、で10日も

掛かってしまった。


 で、その10日後、その「謎」は爆笑と共に「御開帳」する。


 きっとこの10日でワシの頭の中は無意識的に「順序」と「How to」を検索し続けて

きたのだろう。いよいよ煮詰まってヒットしたのは、好きだった作家「中島らも」の一

番くだらなくて笑えるエッセイのエピソードだった。


 昔の「便所」についてのエピソードで、中学時代、ある友人宅の便所は「汚物」を溜

める槽が浅いのか、「大」をすると必ず「跳ね返り」が襲ってきた、と。それをいかに

体をのけぞってよけるか、で友人同士で盛り上がっていると、別の友人が「俺はそんな

苦労したことない。何をそんなに困るのか?」と。「じゃあ、お前はどうやって『跳ね

返り』を避けるのだ?」と尋ねると一言「そんなモン、便器の横にウンコして後で足で

蹴って落とすんじゃい。」と平然と言ってのける、という話だ。


 そこで「スコーンッ」と閃いた。ワシの発想がそもそも「スタート地点」を間違って

いたのだ。


 ベランダをよく見ると、波板の「枠」はベランダからボルトで「着脱」できるのだ。

つまり、波板を枠に入れて固定フックを打ってから元に戻しただけだったのだ。これな

ら、届かない所に手を入れなくても済む。


 ただし、結局のところ致命的だったのは、1×4m弱で2階に設置の“ ブツ ”は「一人

で持てない」という如何ともし難いことだった。


 作戦練り直しである。


 通常、波板の固定フックは小さい穴を開けて、屋根の上側表っ側から差し込む。で、

それができないので、2枚の板の重なった「継ぎ足し」部分に2か所穴を開けて、そこ

へ「結束バンド」を往復で差し込んで枠の「梁」に縛り付ける方法を取った。我ながら

名案だったと思う。


 幸い、板は「色付きの透明下敷き」さながらだったので、「釣り糸」を輪にして穴へ

通し、「往」の穴から出た結束バンドを「復」の穴へ引っ張り込んで結びつける。あと

は「コーキング」で防水。


 よしっ、もう先は見えた。 しかも、ちょっと作業が楽しくなってきている。


 人間、余裕が出てくると良くも悪くも色々考えられるようになる。 もし、ホームセ

ンターに出張作業を頼んでいたら、「どのくらい」だったのかな?


…禁断の疑問だった。


 「ええっと。仮で見積もらしてもらいました。お客さんのベランダの大きさと「造

り」の感じでいったら…はいっ、○○円くらいですね。半日でできるでしょうし。」


 あ痛いたたたたた……。び、び、微妙だあああぁぁぁ。


 材料費と、今まで掛かった手間と時間を考えたら……微妙だああぁぁぁ。


 「いやあ、お客さん? おたく、良くやったはりますよ。今DIY流行ってるんで、

色々素人のお客さんお越しになるんですけど、最後まで我慢できずに結局我々業者に頼

む人が多いんです。大体、修理作業がうまくいかないからって、そもそも最初にどんな

工程で造ったのか、まで考える方あんまりいませんよ。感心してるんです。」


「ああ、そう。おおきに。頑張るわ。」


何か、ホヤホヤした気分で店を出る。ワシは「一つ良い経験と勉強をした。」と喜ぶべ

きなのか、2週以上も時間を浪費したとみるべきなのか。


いずれにせよ、まだ終わっていない。独り者は基本、何でも、最後まで、やらないとど

うしようもないのだ。

 

合掌。

老後の「生活設計」を考える、という事


 これは、ユースホステルが主催している「レクリエーション・インストラクター」講習を大分前に受けた時の事だ。

 

 文字通り、イベントやキャンプなどでのレクリエーションを「指導」する立場になるための民間資格講習ということである。

 

 何でもそうだが、指導する人は「その当該事」の「周辺」から熟知していなくては何も語ることができない。

 

 ということで、レクリエーションとそれにまつわることを多角から考えていくのだが、全く思いもよらなかったことを沢山突き付けられ脳をひっくり返されたようで、痛快だったのを覚えている。

 

 その中で、「定年退職してからの生活をシミュレーションしてみる」という回の講義があって、これがやってみると、まああああ、のっけからつまづくつまづく。

 

 というのは、設定では60歳から始めて…ということなのだが、大概の人は「退職後から」何をするか考えてしまうのである。

 

 この時点でまず「ブッブー!!」。

 

 そう、より長く確実に定年後を楽しむには、「走り幅跳び」のように的確な「助走」が必ず必要だということなのである。つまり、定年前からの入念な「準備」「下調べ」である。

 

 例えば、「田舎生活」や「海外移住」をしたいと考えたとする。

 

 そこで、退職後から「まず、何処に行こうかな?」では、身の丈に応じた場所を探すのに下手をすれば数年掛かってしまう訳である。っで、「あそこに行きたい」と思っても、現地が受け入れに当たっての条件を出していることがあり、例えば、現地の「就職事情を荒らさない」ために、「雇用」はOKだが「たとえバイトでも就職はダメ」だとかあったりする。

 

 更に、申請・身元照会・人物審査・保証人設定なんかがあって、日本の人・モノ含めた「身の周りの整理」(これも気を使って大変だとのこと。)人によっては、準備途中で病気が出てきたり老化で体力が落ちたりして、「場所の再設定」が必要になることも。

 

 定年から準備を始めて、「上手くいったな」で2~5年、途中で多少修正で5~7、8年、結局10年近く要して「諦める」なんてこともあるようで。諦めたら諦めたで、また今の場所での生活を考えなければならない。…人生およそ80年ですから、余生の半分「空白空費」…エライことである。

 

 ただ、もう一つ頭に置いていただきたいことは、この講習は1999年前後の事で、今のようにしばしば「将来は年金自体まともに受けられないかも…」という懸念が出ることも考えると、もう良く解らなくなってくる。

 


今回はこの辺で。 合掌。