「ツボ」を突く。

色々な「ツボ」を突いてみる。

「巨大化」する子供向けヒーローは、現代の“神話”か?

先日、「アメト--ク」で「戦隊ヒーロー」を特集していた。

 

 「ヒーローモノ」は欧米にも日本アジアにも、そして実写もアニメもマンガもある。

そんでもって、アッシは戦後日本子供向けヒーロー創世記の真っ只中に生まれ、仮面ラ

イダー・ウルトラマンマジンガーZ等々、自分の人格形成の「芯」にしっかり練りこ

まれている。記憶をホジればテレビで特集されないモノも溢れるように出てくる。


 で、くだんの番組を見ていて、ハタと思ったのは(「巨大化」しない戦隊モノを見て

いたのだが、何故か…)「そもそも、何であの種類(ウルトラマン等)はデッカクなる

ねん?」だった。


 そう、日本の子供向け変身する系ヒーローは、大きなジャンルとして、

 ①実寸大の人間が実寸大に変身するモノ、

 ②乗り物様のパーツが合体して、或いは人間が変身巨大化するモノ、

の2種類に分けられる…と思う。


 「ヒーロー」が変身巨大化し変身することが物語の柱になっているのは、欧米には唯

一といって良い「超人ハルク」くらい…なもの(「ハルク」でもせいぜい体長5mか

な?)で、「巨大化する」のはほぼ日本独特と言って良い。


 ここで、恐らく多くの同意をもらえると予想できる「巨大化」の下限を勝手に決めて

おく。「ガンダム」までだ。


 まあ、「巨大化」を納得できるのはここまでだろう。ちなみにウィキで調べたら、人

間が何か別の存在に変身して展開する話のジャンルを「変身譚」というとの事だ。

 

 それにしても何故「巨大化する」のか? 

 

 例えば、神話等で「巨人及び巨人の神及び巨人化できる神」は欧米にもアジアにも存

在し、またそれが「人間」に「ダウンサイジング」して人間を試したり観察したり、は

ある。でも、人間が巨大化して…はあまりない。

 

 多くの話の設定は、人間は人間、神は神、である。人間が圧倒的な存在として変身巨

大化する発想は、日本及びアジアのオリジナルなのかもしれない。


 それで言えば、これは「世界まる見え!」で見たのだが、「アジアの“神文化”の本

場」インドの大河ドラマには、よく神や仏がモチーフのものがあるようで、善なる神が

悪と対決中にピンチになるとまさに「ウルトラマン」のように変身巨大化し、勝利を収

めるモノがあったのだ。そう、そして日本には秋田の自然災害に立ち向かう「八郎」が

いた。


 人には潜在的に「巨大なモノ」に「力」と「正義」を託すようである。


 変身ヒーローはよく番組の最後でチビッ子に向かって「ご教訓」を垂れる。結構効力

はあって、今も昔も世の「お母さん方」の‟頼みの綱”だ。

 

 神話には「生きるための知恵」「戒め」等が散りばめられたまさに「人生の教科書」

という側面があるが、今はこんな感じで脈々と受け継がれているのかもしれない。

 

 そのうち「古事記」の中に「超絶尊(ウルトラのミコト)」なんてのが書き加えらえ

るのかも。


合掌。

ピコ太郎の一発屋防止策は、それが意図したものであるなら、秀逸である

 2000年入ったくらいからだろうか。「子役」というモノが“(本人の素行・後の成長も含めて)まともなジャンルの仕事”としてようやく確立された感があるのは、特に昭和生まれの方々にとって異論のないところだと思う。

 

 美空ひばりは別格だとして、昭和生まれで放送開始とともにテレビを楽しんできた世代にとって、「子役」とは「=破天荒・波瀾万丈」そのものと言って過言ではなかろう。

 

 1970生まれのアッシ世代は、何といっても「ケンちゃんシリ-ズ」の宮脇康之氏や「パパと呼ばないで」の杉田かおる氏がすぐに思い浮かぶ。特に宮脇氏は相当な浮き沈み・迷走の後、IT事業等で成功、たまに笑顔でテレビで見かけるまでになった。

 

 今年中学生になった芦田愛菜鈴木福本田望結らの活躍を見ていると、芸能界も含め何かこう社会全体で、宮脇氏のように世間や人の欲望・期待に翻弄されて、後々荒廃した人生を歩まぬような配慮の方向へ動いいていたのが、ようやく実りつつあるのでは、という気がする。 更に本田望結に至っては、女優業と資金がかかると言われるフィギュアスケートを同時に取り組むことで、それぞれで獲得できるものをフィードバックさせあって互いの活動を成立させる、という劇的な進化を遂げている。

 

 また、同じ芸能界で子役と同じように近年、対策というか改善策というかある種の進化を見せているのが、“お笑い芸人”達の「一発屋消耗廃棄防止策」である。

 

 「一発屋」と言うと、短期間で大ブレイクから凋落・低迷している芸人を思い浮かべることが多いと思う。アッシはある時この「一発屋」現象が気になって、テレビの特集などで「一発期」について当該芸人が語っているものをできるだけ集めて、観察してみたことがある。…とは言え、10例ほどであるが。

 

 「一発屋」…まるで本人から進んでそうなったかのようなニュアンスを込め、また若干蔑みの意味も含まれながら使われていると個人的に思う。ところが、特に芸歴を浅くして「当たった」者にとっては、「あれは“危険球”のデッドボールも同じ。」「まさに『それを望む世間』に捧げる“生贄”。」「“次期の種子”まで食い尽くされて捨てられた。」というような声が実に多いのである。

 

 そう、やっと芸人として世間が反応する一つの手がかりを得たのに、「ブレイクネタごと“心中”させられる」のである。次のネタを創り出す時間・精神共に与えてもらえることなく、“刹那的”需要に応え続けた結果、ネタだけに収まらず、その芸人のアイデンティティーやキャラクターごと世間では飽和状態になって「拒絶」されることになるのだ。そろそろ漫才に戻りたいのに、「ラララ、ライッ!」「ラッスンゴレライ!」以外許されないまま忘却の海へ沈められるのだ。

 

 これは堪ったものではない。   

 

 ただ、そんな現象もここ10年ほどでずいぶん変わってきたように思う。

 

 まず、芸人を扱う事務所が多様・増加してきたことだ。歌手や俳優を扱う事務所が芸人を抱えることで、芸人を歌手・俳優並みに大事にするようになってきたのだ。そう、これまでは「世間」以前に芸人サイドで芸人を「消耗品」扱いしてきたといっても過言ではないのだ。特に大手Y興業など。 

 

 で、芸人もサッカー選手みたいに色々なポジションをこなせるように「多様化」を心掛けるようになってきている。例えば、小島よしおは運動能力を生かしてスポーツ・健康関係分野を増やしたり、「裸系」芸人でユニット組むなどして互いに同じネタでも「アップデート・ブラッシュアップ」しやすい環境を作っている。ちょっとした「労働組合」かもしれない。 

 


 そんな中、一番衝撃を受けたのは「ピコ太郎」である。

 


 古坂大魔王は最初からピコ太郎というキャラに「一人格」を与え、自分とは完全分化してしまった。

 


 仕組み・構造から言えば、「ワンクッション置く」というヤツで、物の扱い方としては、ごくごく普通のものである。ただ、今まで誰一人やってこなかった。


 これなら、古坂=ピコ太郎という形での「ピコ太郎とネタと“心中”」を避けることができる。後は大衆・世間の声にも惑わされることなく売れる売れない関係なく、好きに「新曲」や「新キャラ」を造り続けていくことができるのである。

 「“キャラ”ならロバートの秋山がいるじゃないか」という声もありそうだが、ロバートの秋山の場合は“ロバート秋山自身”として「演じ創り上げたキャラ」なのである。


 これ、古坂が意識して創っていたとしたら、トンでもない切れ者である。


 合掌。

理想の「音姫(トイレ用擬音装置)」とは?

 

 あるネット記事を見て、どうも合点がいかないので書いてみる。


 まず確認的にお断りしておく。「音姫」とは、1988年、(株)TOTO発売の「トイレ用擬音装置」の商標名である。日本人の大半が近現代的半永久的かつ動物的不可避な「日常の狼狽事項」に果敢に挑み、加えて絶妙なバランスのネーミングが人々の心を掴んだ。これが世間で「商標の通称名称化」して現在に至る。

 

 しかし、現代日本でのこの分野の「偉大なるフロンティア」は「株式会社 折原製作所」の「エチケットーン」だそうだ。1975年(昭和50年)頃に「一応、当折原製作所が作っているもの」として出来ている。

 

 1960年代から、日本のトイレも「水洗化」が普及し始めると、ごく自然な流れで兼ねてから「シモにまつわる音」を解消したかった「女子」は、水洗化が浸透し始めたトイレの流水の音でもって「消音」を始める。
 これに、しばしば夏の渇水が起こると深刻な水問題の一因となる。そんな嘆きの声から、当初は「オマケ」的に販売されていたが、徐々に「一人前」商品へ発展を遂げることになる。

 

 一気に「ブレイク」したのは1970年代後半から。

 

 さる衣料メーカーの工場から一度に300個の設置注文が来た。というのは、ここの工員は大半が女性だったからだ。となると、使用のたびに「流水」を消音に使うと莫大な費用が掛かることになる。そこで何とか費用を抑えたいと導入の運びになった。当社によると、この辺りから普及や他社の参入などへと確固たる商品分野へと成長していったとの事。っで、現在に至るという。

 

 最近では、「男性用」もあるらしく、「ホラ貝」が合戦場で鳴っているような仕様になっているという。

 


 ここで本題。皆さん、今日までのトイレ用擬音装置に対し、公然の「見て見ぬふり」をしていないだろうか?

 

 「恥ずかしい気持ち」まで「音」で消そうとするあまり、「流水音」「ポップ」「メルヘン」「ホラ貝」…いずれにしても「用を足す音」とはベクトルが「縦」と「横」、つまりスレ違いすぎるものをぶつけてしまって、結局お互いが独立して聞こえてしまう、少なくともアッシはそう思うのである。

 

 「用を足す音」と平行に並ぶ音でないと、まず「恥ずかしい音」が消えないのだ。「恥ずかしい音」と正面切って向き合い「対音」を検討しない限り、羞恥心の除去なんて程遠いのである。

 


 そう、素直に「『用足し音』に似た音」を探すべきなのだ。「空気・物質が『筒状』を通って発生する音」だ。

 

 日常でよく聞かれるこの手の音、結構ありますぞ。

 

 クールな奴でいけば、「ハー〇ー・〇ビッドソン」の特に低速回転時の音は結構使えると思う。調子が悪くって、止まりがちな時も使えますぞ。「ハー〇ー・〇ビッドソン」社との交渉には時間がかかるでしょうけど。

 

 もっとソックリ系でいくなら、マヨネーズやケチャップの残り少ない時。これはこれ以上書かなくても良いだろう。かなり仕組みも形状も似ているので。

 

 実はホラ貝などのラッパ系も悪くはないが、音の振動が低いホルン・チューバクラスくらいからでないと「カムフラージュ」はできないと思う。
 

 

 当該企業様方、是非ともご検討お願い申し上げます。


 合掌。

「寿命120歳」実現と科学者の「本性」

 以前、NHKサイエンス系海外ドキュメンタリーを見ていたら、「遺伝子研究最前線」みたいなものをやっていた。確かにモチーフ的に凄いのは凄いが、それが一側面的でエライ能天気なものをやっていて、恐ろしかったのを思い出した。


 遺伝子学の世界では、「寿命120歳」というものが、ほぼ可能という所まで来ているそうだ。 全ての我々の遺伝子に組み込まれている「老化と死のプログラム」が遺伝子の構造のある個所に「形」として存在することが判ってきている。 ここと「折り合い」を付けることができれば、平均的に120歳くらいまで生きられるようになる、というのだ。 

 少し前のSFが描く「未来と長寿・不老不死」というテーマは、「冷凍保存」という形で数十年数百年先の「未来」に託していたが、これも大幅に短縮されそうな見込みである。 「冷凍保存」には「環境と安全の保持」という分かりやすい「弱点」があり、特にSFではその「弱点」をきっかけに話が展開することが多い。 まあ、「不老不死」からは少し離れるが、'80年代からお馴染みのSF映画「エイリアン」なんかがそうだ。


 ええっと、「寿命120歳」。

 このドキュメンタリーでは、「寿命を延ばすこと=先天性の心身障害や病気そのものの除去を含む」、で「早い実現・実用が待たれる」的な立場をとっていた。 確かに、障害や病気そのものをなくすのは、医療費・身体・心理どれをとっても「悪くない」。 ただ、病気等を除去してその結果「死なない」となると、今度は「医学」や「医療費」で済まなくなってくるのだ。


 社会保障的に言うと「超」が3つくらい付く「高齢社会」になってしまうのである。単純に「人が多すぎて、老いも若きも『共倒れ』になる」のだ。

 たとえ、定年退職を80歳にしても、「U‐80歳で、U‐120歳を支える社会」…。どうやって「年金」絞り出すんだ。ただでさえ、「AIの発達で、現在の仕事が殆どなくなる。」なんてこと言われてるのに。

 ムチャクチャだ。 もし、もっと変な方向へ行ったら「40で成人」なんてことも…。


 もっと妄想をすれば、かなりエグイ暴言なんかも生まれるかも。

 「いつまで、生きんだ! テメェは!!」…十分に考えられますよ。


 明石家さんまが「引退撤回」で、芸人界の渋滞解消がまた遠のいた、と中堅どころが悩んでいたが、それのもっと現実界で超超超ヘビーなのが来るのだ。


 少なくとも、拙者個人が40数年生きてきて、「科学・技術」と「社会」は、個人個人が「どう捉えておくか」という側面で急激に変わりつつあると感じている。 もう「実現が可能・不可能?」ではなくて、「出来てどう変わる?」という前提で「革新」や「進歩」を進めなくてはならない段階のものに変わってきている。

 SNSを介した人間関係のトラブルなんかがそうで、迅速・スムーズなコミュニケーションが目的で生まれたはずなのに、逆に「集団から人を『迅速に』パージする」ツールで利用されてしまうことも。 

  

 「マッドサイエンティスト」という言葉がある。

 「狂科学者」と訳されているが、知的欲求や好奇心が巨大化・変容した「狂気」を抑えられず、事態のコントロールや収拾がつかなくなる可能性を秘めた研究や実験を遂行する学者の事だ。 一番有名なのはイギリスのメアリー・シェリー作「フランケンシュタイン」だろう。 「生命だけ」を自ら創造することに憑りつかれた博士は、かの「怪物」を生み出してしまう。

 しかし、これはフランケンシュタイン博士に限ったことではないのだ。特に「学を志し」た人間は、「知的欲求と好奇心」を上手く飼いならさないと、人を人とも思わぬ「怪物」に…あっ、「ミイラ取りがミイラに」だ。

 

 …まあ、研究職になり損ねた「半端者」が偉そうに心配して言うことではない。


 寿命の問題については、良い「叩き台」に成り得る古い4コマ漫画を思い出した。

 約30年前にあった相原コージの「コージ苑」という4コマに特化した「シュール系」のものだが、その中でかの「火の鳥」をパロッたものがあった。


 主人公が「火の鳥」を捕らえ、

 2コマで その血を飲み「不老不死」を達成する。

 3コマで 意気揚々と悠久の時を過ごすが、

 4コマで 人類も滅びた荒野で、首だけになって転がり一筋涙を流しながら一言…


      「し、死にたい…。」

 


 今回はこの辺で。 合掌。

「拝借した」クセに、「『宗教的要素』を排除した」って、どういうことや!

 

 アッシはウチの菩提寺で月一で行われる「座禅会」に参加している。

 

 本式の行程や企画(❓)から必要最小限のものを組み合わせたものになっていて、2,3の作法を覚えるだけで、初めての方でも古参の方と同じように参加できる。 30分 × 3回 + 10分休憩2回。

 

 門前の看板には「座禅会 毎月??日 19時より」とあるだけで、単純に無料である。 和尚とのそこそこ長いお付き合いから察するに、「禅宗仏教者として、可能かつ当然行うべき『世間への働きかけ』の一つ」と考えておられるようである。

 

 何年も参加しているが、やっぱり難しい。 「一言で言ったら、『ただ穏やかにスッと座るだけ』です。」と言う和尚の解説。…そう、ホンマにこれこそが「答」で、これだけなのだが、これがまさに「永遠のテーマ」。 この間なんか、何故か、座ってる間中ずーーーっと頭の中でAKBの「恋するフォーチュンクッキー」が流れていて、これがなかなか消えてくれない。 カラオケでも歌ったことないのに。

 

 これが上級者になってくると、無理に雑音や雑画に逆らわず、ボリュームを1か2くらいまで、つまり気にならないところまで落とせるという。 そう、「雑音は文字通り『鳴るもの』で、完全に消せるものじゃない。もし消せたら、その人は『死んでる』んや。」ということらしい。…なるほどね。

 

 おおっと、本題忘れてた。

 

 近年、かのスティーブ・ジョブズや、多くの有名アスリートが実践しているという「マインドフルネス」なる座禅・瞑想由来のリラクゼーション・リラックス法が話題になっている。

 

 心身ともに色々な効果があると言われ、応用されれる分野も愛好家の数も増え続けているらしく、「いいね!」ってな所なのだが、紹介や説明の多くに頭に来るものがある。某NHKの特集番組でさえ、そうだった。

 

 ⇒ マインドフルネスは、座禅や瞑想から「宗教的要素を排除」し、集中やリラックスの技法だけに構成したものです。

 

 というような、紹介が多い。

 

 ちょっと待てェエエ!!

 

 

 何かい! 仏教界は座禅や瞑想を「商標登録」でもしてたんかい! 「排除」ってなんや?「排除」って…。

 「使わしたるから、仏教に改宗せいや!!」ってなことでも言うたんかい!

 

 二千年強掛けて磨き上げたものを「借りとる」クセに、「排除」って何や!! 思いっきりディスッとるやないか!!

 

  何で普通に、「集中とリラックス要素に特化して『拝借しました』。」と言えんかね?

 

 

 

 個人的に、仏教は「一神と契約を結び、信仰する」宗教とは違い、「受験生の参考書」的な性格で、お釈迦様がいなくても自分個人で考えて生きていけるように「沢山の人生の数式・公式」が書かれたもの、だと考えている。

 

 つまり、仏教は「仏教だけに偏向させず、自分で苦悩して選択する」のも大事な教えの一つなのだ。最初から「オープン」なのだ。

 

 にもかかわらず、「宗教要素を排除して」と聞くとちょっと哀しい。

  

 

 ともあれ、笑顔になる人が増えるに越したことはない。

 そう、来月もシンプルに「座る」のみなのだ。

 

 合掌。

 

人間技は全て機械技術に置き換えられるのか?

 今から十数年後には、現在存在する人間の仕事の大半が機械やロボットに置き換えられるという。

 

 どんどんSF映画が実現されているのだが、どこまで人が行ってきた作業を機械に変換することが可能なのか。 某日本国営放送の一テレビ番組が、文字通り「凄い技」に焦点を当て、人間の技術や機械の限界を探っている。 日本の職人技術や技術系企業界の活性化の一面も担っているこの番組、千原ジュニアの司会で、業界の扱う品そのままに「固く」「重く」なりがちな内容を気軽に見ることができる。

 

 先日などは、「けん玉」の達人技を生身の人間と工業用ロボットアームに達成回数で競わせていて、圧倒的に人間が勝利した一方、機械も数回成功している。 あれほど「絶妙」「微妙」必要とする、しかも「遊び」をロボットにやられるとは。

 

 実は、今回のモチーフ…

 

 ミリ以下の精密機械レベルで「真っ平らな鉄板面」を造る作業は、いまだに機械ではできず、職人の「超アナログ」かつ「超絶感覚」で江戸時代の大工のような作業スタイルに頼っている。

 これを「キサゲ」加工と言うそうだ。キサゲは削る素材などによっては1m前後ある長い「鑿(のみ)」を使って、ミクロン単位で凹凸を均(なら)していくらしい。柄の尻を腹に当てて体重も利用して削っていくのだが、熟練した職人なら削った表面の「色」や削る際に手や腹に伝わってくる「振動」で、削れ具合がわかるという。

 この調整具合がどうしても機械で再現できない、というのだ。

 

 実は人間の強みはこんなところにあって、感覚や能力・パワーの一つ一つは、動物にも機械にも劣ってしまうが、いくつかの感覚や能力をいくつか組み合わせて「新たな能力」を創り出すことが最大の「武器」になっていると思う。

 

 …みたいなことを書こうと思ったが、最初の「けん玉」の件を思い出して、すんなり書けなくなった。

 

 こうなりゃ、「フォース」の使い手になるしかないのか。

 

 合掌。

  

  

目に見えるだけが全てじゃない

「目に見えるだけが全てじゃない」

 

 …映画「ベストキッド」旧版(ラルフ・マッチオ,ノリユキ・P・モリタ他)の一場面だ。

 

 沖縄出身の老空手家が、主人公の少年に、世の中(もこの宇宙も)は複雑に絡み合ってできていて、決して表面的な捉え方だけでは正しく理解できない、と諭すシンプルな言葉だ。

 

 こんな考え方は、日本及び東洋の思想的・宗教的な事象の捉え方によく見られる。 …そうそう、スターウォーズの「ヨーダ」も、どの作品だったかで同じようなことを言っていた。 あらゆるものに「魂(たましい)」や「神」が宿る、というのが代表的なものだろう。

 

 そして、東洋の知恵は自らの体の中にまで「目に見えない」ラインとポイントを見出した。 これが「経絡」と「経穴」(ツボ)である。 ツボというものは、伝統的中医学で主に体の内蔵を「六臓と六腑」に分けて、それぞれに作用する「回路」と「スイッチボタン」に当たるもの、と言っていいだろう。 例えば、膝小僧の外下に「足三里」というツボがあるが、これは「胃」のラインのものである。 足に胃である。 そこには「神経」のようなハッキリした線があるわけではない。 しかし、胃に違和感や痛みがあると、ここのラインの筋肉も固くなっていたり、押すと痛かったりする。 今ではかの「WHO」もその効能をハッキリ認めている。 「見えていない」ところに「大事なものを見立てる」。 先達の偉大な経験的感覚的「知恵」だ。

 

 「行間を読む」というのも同じ仕組みの言葉だ。 今、ここが見えなくなっている人たちが増えていて、安易に「非難」や「攻撃」に出てしまう人が多くなっているような気がする。 ン~、もし「心」の経絡やツボを発見できたら「ノーベル賞」ものだな。

 

 今回はこれにて合掌。