「ツボ」を突く。

色々な「ツボ」を突いてみる。

ピコ太郎の一発屋防止策は、それが意図したものであるなら、秀逸である

 2000年入ったくらいからだろうか。「子役」というモノが“(本人の素行・後の成長も含めて)まともなジャンルの仕事”としてようやく確立された感があるのは、特に昭和生まれの方々にとって異論のないところだと思う。

 

 美空ひばりは別格だとして、昭和生まれで放送開始とともにテレビを楽しんできた世代にとって、「子役」とは「=破天荒・波瀾万丈」そのものと言って過言ではなかろう。

 

 1970生まれのアッシ世代は、何といっても「ケンちゃんシリ-ズ」の宮脇康之氏や「パパと呼ばないで」の杉田かおる氏がすぐに思い浮かぶ。特に宮脇氏は相当な浮き沈み・迷走の後、IT事業等で成功、たまに笑顔でテレビで見かけるまでになった。

 

 今年中学生になった芦田愛菜鈴木福本田望結らの活躍を見ていると、芸能界も含め何かこう社会全体で、宮脇氏のように世間や人の欲望・期待に翻弄されて、後々荒廃した人生を歩まぬような配慮の方向へ動いいていたのが、ようやく実りつつあるのでは、という気がする。 更に本田望結に至っては、女優業と資金がかかると言われるフィギュアスケートを同時に取り組むことで、それぞれで獲得できるものをフィードバックさせあって互いの活動を成立させる、という劇的な進化を遂げている。

 

 また、同じ芸能界で子役と同じように近年、対策というか改善策というかある種の進化を見せているのが、“お笑い芸人”達の「一発屋消耗廃棄防止策」である。

 

 「一発屋」と言うと、短期間で大ブレイクから凋落・低迷している芸人を思い浮かべることが多いと思う。アッシはある時この「一発屋」現象が気になって、テレビの特集などで「一発期」について当該芸人が語っているものをできるだけ集めて、観察してみたことがある。…とは言え、10例ほどであるが。

 

 「一発屋」…まるで本人から進んでそうなったかのようなニュアンスを込め、また若干蔑みの意味も含まれながら使われていると個人的に思う。ところが、特に芸歴を浅くして「当たった」者にとっては、「あれは“危険球”のデッドボールも同じ。」「まさに『それを望む世間』に捧げる“生贄”。」「“次期の種子”まで食い尽くされて捨てられた。」というような声が実に多いのである。

 

 そう、やっと芸人として世間が反応する一つの手がかりを得たのに、「ブレイクネタごと“心中”させられる」のである。次のネタを創り出す時間・精神共に与えてもらえることなく、“刹那的”需要に応え続けた結果、ネタだけに収まらず、その芸人のアイデンティティーやキャラクターごと世間では飽和状態になって「拒絶」されることになるのだ。そろそろ漫才に戻りたいのに、「ラララ、ライッ!」「ラッスンゴレライ!」以外許されないまま忘却の海へ沈められるのだ。

 

 これは堪ったものではない。   

 

 ただ、そんな現象もここ10年ほどでずいぶん変わってきたように思う。

 

 まず、芸人を扱う事務所が多様・増加してきたことだ。歌手や俳優を扱う事務所が芸人を抱えることで、芸人を歌手・俳優並みに大事にするようになってきたのだ。そう、これまでは「世間」以前に芸人サイドで芸人を「消耗品」扱いしてきたといっても過言ではないのだ。特に大手Y興業など。 

 

 で、芸人もサッカー選手みたいに色々なポジションをこなせるように「多様化」を心掛けるようになってきている。例えば、小島よしおは運動能力を生かしてスポーツ・健康関係分野を増やしたり、「裸系」芸人でユニット組むなどして互いに同じネタでも「アップデート・ブラッシュアップ」しやすい環境を作っている。ちょっとした「労働組合」かもしれない。 

 


 そんな中、一番衝撃を受けたのは「ピコ太郎」である。

 


 古坂大魔王は最初からピコ太郎というキャラに「一人格」を与え、自分とは完全分化してしまった。

 


 仕組み・構造から言えば、「ワンクッション置く」というヤツで、物の扱い方としては、ごくごく普通のものである。ただ、今まで誰一人やってこなかった。


 これなら、古坂=ピコ太郎という形での「ピコ太郎とネタと“心中”」を避けることができる。後は大衆・世間の声にも惑わされることなく売れる売れない関係なく、好きに「新曲」や「新キャラ」を造り続けていくことができるのである。

 「“キャラ”ならロバートの秋山がいるじゃないか」という声もありそうだが、ロバートの秋山の場合は“ロバート秋山自身”として「演じ創り上げたキャラ」なのである。


 これ、古坂が意識して創っていたとしたら、トンでもない切れ者である。


 合掌。