「ツボ」を突く。

色々な「ツボ」を突いてみる。

~日本の世界に誇るべき“ 話芸 ”「漫才」~

 「漫才」は、間もなく世界に向けてブレイクするであろう「The next COOL

 

JAPAN」である。

 

 近年、You tube などで日本の「お笑い」は、それに「ハマっ」た日本在住の外国人た

 

ちによって発信されている。

 

 日本の「お笑い」のエッセンスを知るには適役の「笑ってはいけない」シリーズが

 

(一応、「Japanese gameshow」と言ったタイトルで)日本の空気感に慣れた外国人

 

たちが、巧みにニュアンスを崩さず翻訳してテロップを入れ発信しており、またそれを

 

同じYouTubeで「リアクション動画」として腹を抱えて見ている様子を挙げている。

 

 また、「Anime Boston」なるイベントに、毎年のように「日本のお笑い・バラエティ

 

ー」を持ち込んで紹介する人もおり、その様子を会場の後ろから撮っているのだが、ま

 

あ、ほとんどの人の肩が絶えず揺れており、中には頭を抱え込んだりそっくり返って笑

 

っている様子がこれまたYouTube で紹介されている。

 

 日本の「お笑い」は世界を席巻しうるポテンシャルの塊なのだ。

 

 

 日本の「お笑い」のベースと変遷は、室町時代に職業的芸能としてハッキリ確立され

 

た「狂言( by 能楽)」に始まって、江戸時代に入って「浄瑠璃」や「講談」「講釈」

 

などと交じり合って「落語」「音曲漫談」「浪曲」などが生まれ、そして現代主流にな

 

っている「漫才」「コント・グループ」(と「ピン芸」)へ、という感じなってい

 

る。(落語成立の一説はかなり古く、お釈迦様が説法をより解りやすく・印象的にする

 

ために、その時話したい「教訓」に至るまでのストーリーで、キャラクターにカリカ

 

ュアした言動を取らせる手法を用いたという説もある。)

 

 

 漫才は、落語などより (…あくまで、漫才は現代お笑い芸能のベースなので、「ディ

 

スり」目的ではありません、という注釈で…) アクティブ・ワイドで、寸劇(コント)も

 

喋りだけの掛け合いも両方可能な形式だ。

 

 以前何かの世界のコメディをドキュメントしたようなテレビ番組で、アメリカの「ス

 

タンド・アップ・コメディ」アンに、日本の「スタンド・アップ・コメディは2人一組

 

で行う形式が多い。」と説明したところ、「それは“シャイ”なのか“臆病なのか”、一人で

 

しゃべることができないのか?」とやや侮辱気味に話していた。ただ、その彼の「芸

 

風」はなかなかの挑発的なものだったのを覚えている。まあ、その時たまたまそうだっ

 

たのかも知れない。

 

 例えばアメリカのコメディは、「差別」や「侮辱・悪口」ギリギリの所をウロウロす

 

るものがやはり多めで、ともすればその「ヒヤヒヤ感」を「笑い」とすり替えている感

 

すらある。「社会風刺」と言ってしまえばそれまでだが、それでは足を運んで見に来て

 

いる客は素直に楽しめない。

 

 

 その点で日本の「お笑い」は非常にクリーンなベースがあって、落語のネタにはいわ

 

ゆる「天然」や「おっちょこちょい」「ハチャメチャ」は登場するが、そこには差別や

 

侮辱的なものはほぼ存在しない。基本「天然」「ハチャメチャ」が巻き起こす騒動を

 

「暖かく」「突っ込んで」いくのが日本の基本的スタイルだ。

 

 そんなベースがあって、これを臨機応変に加工しやすく2,3人の構成にしたのが漫

 

才で、まあたとえ内容が少々過激・挑発的であっても「舞台上の2人の会話・掛け合

 

い」として、かつ露骨な中傷を避けることができる。

 

観客はとして、何かこう鳥かごの中を見るような、あるいは水槽を覗くような感覚で安

 

心して楽しむことができるのである。

 

 

 ダジャレ・エスカレート・音曲・モノマネ・しゃべくり・シチュエーションコント…

 

あらゆる設定から組み立てることのできるこの日本の話芸は、間もなく世界でブレイク

 

すること必至なのだ。

 

 

 

 

合掌。